マタイの福音書(2)

2022年12月24日

2015年1月11日
聖書箇所:マタイ9:9~13
宣教題:我(イエス)に従え 

今日もマタイの福音書9章からイエスの歩みについて学んでいきます。前回の話を思い出してみてください。北部ガリラヤ地方の町、カペナウムでイエスは体の動かない病気で苦しんでいた人を、言葉をもって癒しました。同時にこの病の人に対して罪の赦しの宣言をしています。彼はイエスによって新しい人生を歩み始めました。
今日は同じ町で続けて起こった大きな事件について学んでまいりましょう。何が大きな事件か、一人の人の生き方が全く変わってしまったことです。一人の人とは誰ですか。吉田孝ですか。そうではありません。この福音書を書いたマタイ自身です。彼の人生はこの時に大転換しました。

①古い生活のマタイ9節前半 ②新しい生活のマタイ9節後半~10節 ③非難11~13節

1、取税人マタイ 9節前半
「そこを去って」は「カペナウムを去って」と言う流れです。中風の人を癒されたイエス様は別の町に移動します。その道の途中に収税所があります。マタイの職業は取税人でした。今から2千年前ユダヤはローマの支配の中にありました。ローマ人はユダヤから直接税金を取ることをしないで、ユダヤ人を代理人にして税金を集めていました。しかも税金は入札制で最高額を入れた人が税金を集める権利があります。この場面は、収税所とありますのでマタイが集めていた税金は通行税であることが分ります。また、この「道」とは北はシリアから南はエジプトに通じる街道(通商路)でしたので多くの人がこの道を通ります。マタイは入札額をローマに納めれば差額は全て自分の懐に入りますので莫大な収入が入ります。そうですおお金持ちでした。でもユダヤの口伝律法(言い伝え)では、取税人になることは禁じられていたようですので取税人は民衆から嫌われ差別されていました。誤解の無い為に言いますが今の税務署とは全く違う職業です。

このようなマタイでありましたが、彼は自分の人生がこのままで良いのか、人生の意味は何かという事を考えていました。そして当然カペナウムに来られたイエス様のお姿を見ていたでしょうし、解き明かされる聖書の言葉も聞いていたことでしょう。またイエス様が多くの人を癒されたことも聞いたりしていました。そして機会があれば直接話を聞きたいと願っていたのです。

2、新しいマタイ(イエスに従うマタイ) 9節後半~10節
ある時収税所に座っているマタイの前をイエス様が通りかかりました。この文章を見ると、この時既にイエス様はマタイを知っていました。ですから声をかけます。私に従いなさい。もうこの時はマタイの心は整っていたのですね。決心はついていたのでしょう。彼は取税人という職業を捨ててイエスの弟子になったのです。ルカ5:28でルカは「するとレビは何もかも捨てイエスに従った」と記しています。彼はこの時に新しい人生の一歩を踏み出しました。生活の安定よりも、救い主にお会いして、主の御心の中を生きる事を第一にしたのです。その証拠に10節でマタイはイエスとその弟子、そして昔の仲間である取税人たち、罪人たちを自分の家に招いて盛大な食事会を開いてイエスにある生き方を広めています。
(説明)食事の席について、食卓についてとは、テーブルがあって椅子に座っているのではありません。肘をついて横になっている風景です。この格好でイエスや弟子たち、その周りにマタイの取税人仲間や罪人仲間たちがいます。また、ここで罪人とありますが、これは遊女、または娼婦と呼ばれた人々の事をここでは罪人と書いています。この人たちはユダヤ社会では完全に外れてしまった人々です。マタイの仲間も当然このような職業の人たちでした。でも彼はイエス様に出会って、人生が変わりましたので昔の仲間を招いて、イエス様を証する食事会を開いて伝道しようとしていたのです。新生体験を昔の仲間にも経験してもらいたかったのです。食事を共にすることは親密な親しい関係を現しています。

3、非難11~13節
マタイの家の周りに群衆やパリサイ人たちがいました。あるいは家の中にも入っていたのかもしれません。今度は9:5のような観察段階は過ぎましたの。審問の段階です。ですからイエスの弟子たちに言葉を発して質問しています。パリサイ人たちのこの時の思いは、イエスがメシヤ、救い主ならばあのような汚れた取税人や罪人たちと一緒に食事をすることはあり得ないというものです。彼らの判断、考えではこの時点で既にイエスはメシヤでなくなります。彼らは自分たちの考えと違うと見るや、どんどんイエスや弟子たちを攻撃、仕掛けてきます。
でもイエス様は見事な答えをします。医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。彼らは道徳的には病人です。イエスは彼らを癒す医者、だから必要だというのです。逆にパリサイ人たちは、自分たちは霊的に健康だと思い込んでいました。ゆえに霊的癒しを必要としませんし、医者を必要としないという理屈になります。
続けてイエスは旧約聖書ホセア書6:6を引用して言います。私は、あわれみは好むが、いけにえは好まないとはどういう意味か、行って学びなさい。これは外面ばかり取り繕って、内面をおろそかにするパリサイ人に対する強烈な皮肉です。イエスは自分を正しいと思いこんでいる人を招くためではなく、自分は罪人と思っている人を招くために来たのですと、切り返しています。

適用
1、イエス様は今日あなたを招いています。
①私についてきなさい。我に従えという権威にある招きの言葉をあなたにも語りかけています。
②同時に恵みに満ち溢れる招きをもってあなたを招いています。
③愛に満ちた招きをもって神の愛の中に招いてくださいます。

2、主の招きに応えていこう
①信仰による決断には犠牲が伴います。しかし主の声に応答する者には豊かに報いてくださる。
②賜物に生きよう。マタイは言葉の人ではないが文書を残した。
あなたの賜物は何ですか。自分に与えられている賜物をもって招きに応答しよう。この主の招きに私たちも従い、主イエスの心を自分の心として歩んでいきましょう。

結び
今日の暗唱聖句。マタイ9:13。貴方も今日主の招き「我に従え」というイエスの招きの声を聞いて、信仰によって応答し立ち上がってください。そして自分に与えられている賜物を生かして主イエスの心を心として生かされようではありませんか。そして常に思いを外に向けて生きようではありませんか。マタイはイエス様と出会い古い生活を捨てて、キリストの弟子として新しい生活を始めました。彼は自分に与えられている賜物を生かして、そのペンを通してイエス・キリストの歩みを記録したのです。あなたは何でキリストを証しますか。