テサロニケ人への手紙第一(8)

2022年12月16日

2015年5月31日
聖書箇所:Ⅰテサロニケ5:1~11
宣教題:慎み深い信仰 

おはようございます。今日でテサロニケ人への手紙は8回目になります。5章は3回予定しています。1つの書簡を連続して学ぶ事は私たちの信仰生活にとって欠かせない事です。それは全体を通してパウロが何をテーマに教えようとしているのかを知り、主の心を学び、更に現代に生きる私達に適用することが出来ます。そこから知恵をもらって生きるのです。

前回の話は主イエスからが天から下ってこられる事、そして生きているキリスト者が瞬く間に空中に引き上げられて主とお会いする事を一般に携挙とか空中再臨といいます。これは何時かわかりませんが起こることであると学びました。皆さんの中にはこのような話は初めてなので混乱しているかもしれません。あるいは信じられないと思っている方もいるでしょう。また吉田牧師は変な解釈をしていると思った方もいるかもしれません。でもこのことはパウロが死者の復活のところでも述べています。(例:コリント第一15)しかもパウロは神から啓示を受けて書きました。そしてキリストが戻ってくる携挙や再臨はキリスト者にとって最大の望みであり希望です。この時に私たちは栄光の姿に変えられていきます。勿論この日時が何時かは誰もわかりませんので軽々にいう事ではありません。日々主を待ち望む生き方と共に自分の一生を見据えて生きるという両方のバランスが必要になります。そしてこのキリストの再臨を待ち望むキリスト信仰こそキリスト教の本質なのであります。

 さて今日は5章になりますが1節では主が来られる時については、いつか、どういう時かについて書く必要はありませんとのべて、2節からイエス様が再びこの世界に戻ってくるにあたってクリスチャン生活の在り方を述べていますのでその視点で共に考えてまいりましょう。これは4章後半の話とは少し異なります。再臨は携挙の後に起こる、主の日について述べています。そこで今日は①主の日とは何か②主の日を待ち望む生き方③結論の三段階で学んでみようと思います。

①主の日とは
聖書のある個所で主の日とは主イエスのよみがえりの日、復活の日、週の初めの日として日曜日を指す場合があります。例:黙示1:10、しかし、主の日は多くの場合、キリストがもう一度目に見える形で地上に来られる再臨を指しています。例・使徒2:20、Ⅱテサロニケ2:2、Ⅱペテロ3:10、他にもいたるところに再臨の記事があります。旧約聖書ではキリストが再び来られる事を先取りして預言者ゼカリヤが明確に記しています。ゼカリヤ14:1~。反キリストとその軍勢を滅ぼしこの世界の王として千年の間治めてくださるために来られます。キリスト者にとっては神の救いの完成の時であり希望の日です。同時に未信者にとっては神の恐るべき裁きの日で、終末時代の「苦難の日、患難時代、7年間続くと解釈されています。」呼ばれる日であります。有名な個所はマタイ24章です。また黙示録16:12以降に記されているように世界の王たちがハルマゲドン(メギドの丘)に集まる時にキリストは再臨して悪を滅ぼし、反キリストを滅ぼされます。これが主の日の意味です。後にキリストによって全く新しい地上で千年王国を造られます。その後全く新しい新天新地が造られます。私たちは安易にボヤ~としている天国と言いますが天国はは聖書にはありません。新天新地が用意されているのです。誤解しないようにお願いします。

主の日の特徴
夜中の盗人のように突然来る。人々が平和だ、安心だと言っている時に来ます。陣痛の苦しみの時のように突然来る。但しいつか誰もわからない。
信仰者にとって
暗闇の中にはいないので主の日は盗人のように襲ってこない。何故ならキリスト者は光の子、昼の子どもであるから。
②主の日を待ち望む生き方
6節
信仰的に眠っていないで、目を覚まして、慎み深くとは、静かに落ち着いて、用心深く、この世の流れに身を任せないで生きようと勧めています。
やみの力に勝利する信仰と愛、希望を持って生きよう。
8節
慎み深く生きよう。静かに落ち着いて、用心深く、この世の流れに身を任せないで主の心を第一として生きようと勧めています。
9節
神の御怒りにあうのではなく、すなわち患難時代の後に来る主の日の裁きを経験するのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったのです。この「救いを得る」という言葉を見て疑問を持ちませんか?何故こんな書き方なのか?私達は恵みによって、信仰によってイエス様を信じたら救われているのではないか。それなのに、「救いを得る」とは変な文章だとおもいませんか。しかしこれは全然変ではないのです。救いの3つの面を思い出してください。信仰によって神の前に義とされた、信仰義認、今の私たちの歩み、少しずつイエス様に似た者とされていく聖化、3番目は私たちが主イエスの御許に行く時に栄光の姿に変えられる栄化があります。すなわちここでは救いの完成である栄化の事を述べているのです。それをここでは救いを得るという言い方をしています。そして10節にありますように私たちはいつも主と共にいるのです。
結論
10節 今まで通り互いに励まし合い、互いに得を高め合いなさいと勧めているのです。

適用 備え
携挙とか再臨はいつ起こるのかわかりません。世の終わりはいつなのか正確には誰もわかりません。だから主イエス様が今日来ても良い様に恵と信仰によって備えて生きるのです。

同時に自分の生涯、一生を描きながら長い目でキリスト者としての歩みを受け止めてまいりましょう。地に足を着けて、良く働き、良く学び、良く捧げて主の前に生かされようではありませんヵ。そして主が来られる事に備えて歩んでまいりましょう。主を待ち望みつつ歩んでまいりましょう。
その際忘れてならないことは普通の生活をすればよいのです。それはいつも言うように恵みにより信仰によって聖霊様に励まされつつ、あなたらしく生きる事です。それは、イエス様とお会いする事が最大の喜びでありますから、信仰熱心になりますし、イエス様が聖い方であるので自分をきよくするようになります。実はキリストの再臨を待ち望む姿勢こそキリスト教の本質であり、あなたの使命、役割を明確に確認しながら生きるのがキリスト信仰者の生き方であります。

暗唱聖句
Ⅰテサロニケ5:11