テサロニケ人への手紙第一(7)

2022年12月16日

2015年5月24日
聖書箇所:Ⅰテサロニケ4:13~18
宣教題:再臨の希望 

今日5月24日はペンテコステになります。イエス様が死を打ち破りよみがえって50日目になります。この時に信者の上に聖霊が下り人々は聖霊に満たされました。こうして公式にはキリスト教会が誕生しました。そして2千年近く経過しキリストの福音が世界中に宣教され日本にも伝えられました。私たちの埼玉県児玉郡市にも伝えられました。そして聖書時代の人々と同じようにイエス・キリストを救い主と信じて救われました。目には見えませんがキリストと一つにされ、聖霊によってイエス・キリストにバプテスマされたのです。今の時代も聖霊様は私たちの内に住んで働いておられます。私たちの信仰生活は自分の力で頑張って生きるのではなく、救われた時と同じように恵みにより、信仰によって歩むことが大切です。その為には助け主なる聖霊様のお力をいただきながら生きる事が真に成長することになります。

さて今日はテサロニケ人への手紙Ⅰから7回目の宣教になります。再臨の希望という題になります。ここは厳密にいうとキリストの再臨の前におこる出来事で17節「信者が一挙に引き上げられて、空中で主と会う」という事から携え上げられるという意味で携挙といいます。携帯電話の携に選挙の挙という字を書きます。また別の言葉では空中再臨ともいいます。英語ではラプチャです。再臨はセカンドカミング、またはプレゼンスです。このようにキリストの携挙は再臨の前に起こる事ですので少し違います。パウロはこの箇所で携挙の希望を述べています。

ここが手紙の書かれたテーマです。テサロニケ人の教会は短期間のうちに成長していった教会です。そしてほかの模範となるような教会でした。パウロは1章から3章までを通してその辺をしっかり述べています。しかしキリストの携挙や再臨についての理解が不足していたために混乱があり、クリスチャンが亡くなることに対して必要以上に悲しみに沈むことがありました。そういう訳でパウロは誤解の無いように書いたのです。それが13節であります。

眠った人々とは、死亡した人の事であります。パウロは婉曲法という書き方でここではキリストを信じて先に亡くなった人の事を眠った人々と書いています。他の望みのない人々のように悲しみに沈まないようにしてほしいと書いています。それは死んだ者たちは携挙の時にキリストの恵みに与ることが出来るのだろうかという疑問がありました。それに対して励ましの言葉を述べたのが次の文章です。因みに携挙とは1:10にあるようクリスチャンを「やがて来る御怒りから救ってくださる」為に起こることです。やがてくる御怒りとは終末におこる患難時代と呼ばれるものです。これから救うためにキリストが来られる事です。

14~15 復活の希望
14:イエスが死んで復活された事を信じているのがクリスチャンです。それは目に見えませんがどのような現象が起きたのでしょうか。キリストと信者は一つに結ばれたのです。一体となったのです。であるならばイエスが再びこの世界に来られる時に先に死んだキリスト者を一緒に連れてきますと述べています。すなわちキリストにあって死んだ人々に復活の希望があるのだと言っています。携挙の時に天に挙げられるのである。
15:昔イエス様が語られたとおりに言いますがという意味です。但しこれは直接的には聖書には記されていません。キリストが再び来られる時に生き残っている人は死んだ人々に優先することはない。死んだ人々の方が先だというのです。パウロは順番があるのだという事を次にのべています。
16~17携挙の預言
号令と共に御使いのかしらの声と神のラッパの響きのうちに、キリストご自身が天から下ってくるのです。それからキリストにある死者が栄光の体によみがえること
17
次に生き残っている信者が一斉に雲の中に引き上げられ空中で主イエスとお会いする。雲とは雲そのものではなく神の臨在の場所に引き上げられることです。そして主と共にあるのです。キリストにある死者とは教会時代の信者の事。私たちも含まれます。

詳しく書かれているのはⅠコリント15:50~53。
パウロに知らされた奥義です。奥義とは、昔人々に知らされていなかったが、ある時期に明らかにされた神の啓示、真実な事です。栄光の体に変えられる。たちまち、一瞬のうちに。これが有名な言葉で鉄腕アトムの原子、これ以上細かくできない時間。この言葉からわかるように携挙は一瞬のうちに起こるのです。人の目には見えません。このことはこの終わりの時代においていつあってもおかしくないのです。いつかはわかりませんが一瞬のうちにキリストにある死者が、次に生き残っている信者がキリストによって引き上げられます。実際に起こることです。

ある人々はこの箇所を理解するに当たって、携挙を信じません。ここは当時の終末思想にすぎずこの通りに起きるというのは現代人にとっては愚かな事であると言って取り上げません。この聖句から携挙を信じる人々は、低レベルの熱狂的なキリスト教だとか、キリスト教原理主義者とか、根本主義者、ファンダメンタリストと言って馬鹿にするのです。

でも私はどう見てもこの箇所はパウロがキリストの携挙を語っているとしか読めませんのでそのまま皆様に伝えています。またパウロや使徒達が本気で信じていたことを割り引くことはできません。ですから私もそのまま信じています。そしてキリストの携挙や再臨をそのまま皆さんにお伝えしています。そして再臨信仰こそ本物のキリスト信仰なのです。キリストを待ち望む者はキリストがきよいように、自分たちをきよくします。但しキリストがいつ来られるかは誰もわかりません。

結論 18節
でありますからキリストによって携え上げられる希望があるから互いに慰め合いなさいと、パウロは励ましたのです。ここでいう慰めとは、一時しのぎの気休めの事ではありません。人間の状況を悲しみから喜びに変えて下さること。これが主なる神のなさる真の慰めである。この働きをするのが聖霊様であります。

皆さんの中には今日初めて携挙という言葉を聞く人がいるかもしれません。これは聖書にはない言葉ですが、17節の信者が一挙に引き上げられるという言葉からきているキリスト教の用語です。聖書ではほかの箇所にも出てきますので覚えておいてください。

暗唱聖句
Ⅰテサロニケ4:18 それぞれが置かれた立場で誠実に歩んでまいりましょう。