テサロニケ人への手紙第一(3)

2022年12月16日

2015年4月26日
聖書箇所:Ⅰテサロニケ2:13~20
宣教題:私たちの誉れ、また喜び 

先週は教会の皆様に4月生まれの誕生会でお祝いしていただき感謝します。私も主の守りの中で無事61歳の誕生日を迎えることが出来感謝しています。思えば私は過去2回死にそうになりました。1回目は6歳の頃の野山を駆け回りチャンバラをして遊んでいた時に切株につまずいて、篠竹の切株を首に刺してしまいました。あと3ミリずれていたら死んでしまったと医者に言われたと母親が言っていました。あと一回は小学5年の時に川で泳いでいたら深みにはまり溺れてしまったのです。幸いなことに近くにいた高校生がすぐ助けてくれました。川は水面下では渦巻いていますので足を引っ張られます。結構危険なものです。しかし、ここまで生かされてきましたのであと何年の命かはわかりませんが、しっかりとキリストにあって生かされたいと願っています。

今日はテサロニケ人への手紙Ⅰから3回目の宣教になります。2:13~20までです。まだこの手紙になじんでいない人の為に手紙が書かれた背景を申し上げます。この手紙は使徒パウロによって紀元50年ころに新約聖書では最初に書かれた手紙です。パウロたちはテサロニケ教会を設立後、迫害にあった為にすぐ、次の町に移動せざるを得ませんでした。よって3週間から数か月の短い滞在だったようであります。よって町を離れるにあたって教会のメンバーたちは、自分が教えた通りに歩み、教会形成がなされているだろうか、建て上げられているだろうかと心配でした。そして若い同労者テモテを遣わし教会の様子を調べました。報告を受けたパウロは健全な教えを伝え、キリストが再びこの地上に帰ってこられるにあたって信者の信仰生活は如何にあるべきかを教えるためにこの手紙を書きました。因みにキリストが再び来られる(19節)事をキリスト教用語で再臨と言います。聖書の言葉ではパルーシア、以前パルーシアを英語だと勘違いしていました。英語ではプレゼンスという言葉になります。さて今日の聖書箇所は大きく分けると2つになります。

13~16 テサロニケ教会の信仰の歩みについて
この箇所は2:1~続く言葉です。テサロニケ教会の人々を励ます内容になっており、時には母の優しさをもって、時には父親のように励まし慰めを与えていくようなものでした。13節からは、こういうわけで私たちとしては神に絶えず感謝していますと語りかけています。そしてテサロニケ人教会の人々を励ましています。それは自分の国の人々から迫害されても良く信仰の歩みをしていると言うのがその中身です。
 注目したいことは13節の言葉です。テサロニケ教会の人たちがパウロの語る言葉を聞いた時、神の使信のことばを受けたときと書かれていますが、これを単なる人間の言葉として、いい加減に聞いて受け止めたのではなく、真剣にその通り神の言葉として受け入れたのです。そしてそのように生きたら生き方が変えられたというのです。それは神の御言葉に生きるのでその人の内で聖霊が豊かに働いて助けられて生きる生き方です。しかしクリスチャンには神の言葉に対して2通りの生き方があります。ある本に書かれていることを紹介すます。
①御言葉を通して生き方が変えられていく人⇒この人は聖書がこのように語っているのだからと言って、自分の考えを捨てて、御言葉を基本として生きようとする人。
②成長しない人、生活が変わらない人⇒この人は聖書がこのように語っているけれども、自分の考えを優先して生きるという人。
この人たちの違いは御言葉に従って主の御心を優先して生きようとするか、または自分の考えを優先して生きるかです。もう一度言います。聖書がこのように語っているのだからと言って、自分の考えを捨てて、御言葉を基本として生きるか、それとも聖書がこのように語っているけれども、自分の考えを優先して生きるという人でしょうか。あなたはどちらを選び取りますか。

17~20 再会の希望について
パウロはテサリニケ教会の兄弟姉妹たちに会いたいと熱心に願っていました。何故なら彼らこそイエス・キリストが再び来られるとき、キリストの再臨、英語ではプレゼンスと言いますが、やがてこの世界が終わりを迎え、神の御怒りに会う前にキリスト者を救うためキリストがもう一度地上に戻ってこられます(1:10、2:11)。その時にあなた方こそ、私にとって喜びであり、また誇りだとパウロは告白しています。このように見ますといかにテサロニケ教会がパウロの教えられたとおりに歩んでいたかをしることができます。あなた方こそ私たちの誉れ(誇り)でありまた喜びです。これはすごい誉め言葉です。但し地上の教会には完全な教会は一つもありません。手紙の後半を読めばわかりますが、彼らも弱さがあり、多くの課題を抱えている不完全な教会でした。

この箇所から気になるところを1つ学んでまいりましょう。妨げについてです。私たちが何か行動を起こす時に、邪魔が入ってうまくいかない時があります。パウロたちの場合はもう一度テサロニケに行って彼らを励まそうと思っていたのですが、サタンの妨げがあってその願いはかなえられませんでした。具体的な事は書いてありませんが、一つ考えられるのは、サタンを通して民衆による迫害かもしれません。そこで妨げについて考えてみましょう。
①サタンの妨げ
サタンとは元々は敵対するものという意味です。神に敵対するものです。み使いの堕落したものの中の一人がサタンです。霊的存在者であり、人格を持っています。聖書の書かれた最初から出てくる存在です。別の言葉では悪魔と書かれています。また、竜、へび、ベルゼベル、ベリアル、明けの明星、悪い者、試みるもの、この世の神、空中の権威をもつ支配者、この世の君、実に様々な呼び名で呼ばれています。このサタンが様々な事をもって神の計画を妨げ妨害します。しかし恐れる事はない。サタンは神に裁かれることが決まっています。また神の許しの範囲でしか行動できませんのでことさら恐れたりする必要はなし。ことさら神経質になる必要もありませんのでご安心を。
②主なる神の妨げ
もう一つの妨げは、主なる神が私たちの計画を妨げる時があります。例えば、自分の思いを優先して行動する時にその人の為にならないと判断した時、神はスットプをかけます。また御心にかなっていてもまだ時が早い場合にもストップをかけます。その人にとって最善の時が来るまで神は忍耐をもって待たせます。この時に私たちに必要な事は、これはサタンが妨げているのか、神様が道を開かないのかを判別する信仰の質が問われます。ことさら騒ぎ立てず静かに神の御声を聴いていく信仰が必要になります。

適用
私たちが聖書の御言葉に対して如何に生きるかを問いかけている。
聖書の意味を文脈から良く理解して、自分の考えを捨て、御言葉の通りに生きようとするのか、そ
れとも聖書がこのように勧めているけれども、自分の考えを押し通して生きる人か。今日主の前に
静まって歩んでまいりましょう。
暗唱聖句Ⅰテサロニケ2:19欠点を持ちながらも主の前に懸命に生きようとした信仰者たちから
学んでまいりましょう。お祈りします。