ガラテヤ人への手紙(11)
2015年10月11日
聖書箇所:ガラテヤ5:2~15
宣教題:愛によって働く信仰
今日はガラテヤ人への手紙11回目の学びになります。この書物のテーマは福音の真理に立ち返る事です。1章~4章でガラテヤ人教会信者の信仰をかき乱す偽教師たちから守るためキリスト信仰の本質が書かれています。信仰の本質とはイエス・キリストが私達罪人の為に十字架に掛かって死なれた事、葬られたこと、三日目によみがえり、今も生きておられることを信じたら救われるという、信仰による救いを何回も述べています。救いの為にはイエス・キリストへの信仰だけが必要であり信仰+割礼や律法を守るこい行為は必要がないという事です。5章~6章はキリストの救いを受けた信者の実際生活が書かれています。今日はその1回目になります。
○2~12愛によって働く信仰が大切である(割礼は必要ない)。
この箇所は長い所ですのでポイントだけ話します。それは割礼の事です。これは男性の生殖器の包皮の皮を切り取る行為です。現代的に言うと包茎手術であります。私たち日本人にとってあまり聞いたことはないので、なぜユダヤ人がそこまで大切にしているのか理解に苦しみます。でも彼らにしてみれば先祖アブラハムが創造主と契約の印として行った信仰の行為でありますから自分たちの誇りでありました。イスラエルの民にとって欠かすことのできない大切な行為だったのです。
でもパウロにとって、割礼はキリストの救いの視点で見ると全く必要ないものであります。新約聖書の視点で見れば割礼がガラテヤ教会の人たちの信仰を妨げ惑わしているものでした。パウロの言いたいことのポイントが6節の言葉に表されています。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事な事ではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。新共同訳では非常に分かりやすく訳されています。「割礼の有る無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」イエスを信じて救いを受けた人はキリストの愛が注がれているのだからその信仰に基づき愛ある良い業をもって人に仕える事こそ大切なのだと述べています。
そして12節このくくりの結びにガラテヤ教会をかき乱す偽教師に向かって、いっそのこと、あなた方偽教師は自分で切り取ってしまえ、去勢しまえと激しいことばで迫っています。
○13~15自由にされた者は愛に生きよ
この手紙のテーマは福音の真理だという事は何回も皆様にお伝えしていますが、キリストの福音、良い訪れのことばを信じた者は救われます。そこで皆さんにお聞きしますが、救われた者の特徴は何だと思いますか。そうです。自由です。パウロはガラテヤ人たちに対して再び兄弟たちと呼びかけて勧めています。自由にされたのだからその自由を用いて、何でも好き勝手しないよう戒めています。時々思い違いをする人がいて自由と言えば自分中心に何でもして良いと考える人がいます。それは自由をはき違えて放縦の世界になってしまいます。パウロは自由を肉の働く機会としないようにと釘を刺しています。欲望のまま生きるのは
やめよと語り掛けます。ではどうすればよいか。キリストの愛で互いに仕えなさい。
14節、律法全体と言うと難しく感じるかもしれませんが、聖書全体はという意味です。聖書の中心はこの隣人愛に生きる事なのです。これが私達への最も大切な生き方への勧めだと述べています。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」実は旧約聖書レビ記19:16のみことばです。具体的には自分を嫌い、敵対する者をも愛しなさい、大切にしなさいと言う生き方を勧め。これを完全にできるという人は一人もいません。完全にこれを実践して生きた方は神が人となられた主イエスだけです。
しかし私達は最初とあきらめないで、聖霊の力によってわずかでも成長し、隣人を自分と同じように愛せる様一歩踏み出していく事が出来る様になるのです。これがクリスチャンの歩みできよく化けると書いて聖化されるとい言います。
15節、次にパウロはガラテヤ人に向かって互いに突っつき合っていたら滅び滅ぼしつくされるから気を付けなさいと警告しています。
適用
○隣人愛に生きるとは
聖書が示す生き方は自分の嫌いな人、苦手なタイプの人をも愛しなさいというものですがさてあなたはどのように関わりますか。(消極的)あまり関わらなければ罪を犯すことが無いのが一つの生き方です。(中間的)適度な距離を置いて関わる事です。(積極的)かかわりは自分に敵対する者の為に祈り愛せる様に導いていただく。これによって少しずつ、良きサマリヤ人のように変えられていきます。但し時間はかかります。一生かかるかも知れません。
○自由を生かして互いに仕え合う
クリスチャンになると不自由になるから信じないという人がいます。しかしキリストを信じたら全く逆になります。本庄教会の皆さんはいかがですか。キリストを信じて不自由でしょうがないという方はいますか。いないはずです。逆にイエス・キリストの救いは人を縛りから解放し自由にさせます。本当にキリストを信じている人は日曜日の礼拝にいやいやながら出席する人はいません。自由意思で礼拝するために集まります。更には自分を捧げる思いの表れとして献金までするのです。この自由を生かしてキリストの愛に基づき、互いに隣人を愛し仕え合おうではありませんか。
結び ガラテヤ5:6
キリストの無償の愛を受けたあなたはどのように愛を表しますか。愛の実践を伴う信仰こそ愛によって働く信仰です。それぞれがイエス様から御霊の賜物を受けていますから、それぞれの愛の表し方は違うと思います。違っていてもイエス様から受ける賜物は良いものです。その良いものをもって愛に生きるキリスト者とされてまいりましょう。具体的にはキリストに似た性質を持つ者とされて生きる事です。お祈りします。