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ガラテヤ人への手紙(10)

2022年12月15日

2015年10月4日
聖書箇所:ガラテヤ4:21~5:1
宣教題:キリストによる自由を得て 

今日はガラテヤ人への手紙10回目の学びになります。手紙のテーマは福音の真理(信仰によって義とされる、別の言い方をすると信仰義認です)ここから外れたガラテヤ諸教会に対してもう一度キリスト信仰に立ち返るように促す手紙でした。この手紙は大きく2つに分けられます。ガラテヤ人の信仰をかき乱す偽教師たちから守られるため1章~4章でキリスト信仰の本質が書かれています。5章~6章ではパウロが書いたキリスト信仰の本質に基づく信者の実際生活が書かれています。そういう訳で今日の箇所はキリスト信仰本質の教えで最後のくくりとなる極めて大事な個所です。

○20~30聖書が教える律法の意味とは
まず皆さんに頭を切り替えていただきたいと思います。それは律法という言葉の意味です。十戒に代表されるモーセの律法は善か悪か。あるいは冷たいものか。そうではありません。律法は生ける神の言葉であり、人が生きる基準です。時には厳しく思う箇所があるかもしれませんが実に人間への愛と配慮に満ちた言葉なのです。ですからイエス様も、使徒パウロもこの律法そのものについては悪であると一言も言っていません。イエス様はむしろマタイ福音書山上の説教の箇所でモーセ律法の本来の意味を解き明かしているくらいです。

ところがイエスもパウロもパリサイ人や律法学者たちの律法主義、律法的な考え、生き方については激しく非難しています。ガラテヤ書でテーマになっているのもこの律法主義という考え方です。この律法主義の教えがキリスト教会に入ってくるとガラテヤ諸教会のように聖書の真理がゆがめられ信者が律法の奴隷になり自由がなくなります。本来のキリスト信仰から大きく外れてしまいます。
では律法主義とは何でしょうか。それは律法の意味を文脈や時代背景を正しく受け止めつつ、神の御心は何かを理解しないでみことばを表面的に解釈し自分の考えに押し込んでいくものです。それを日常生活に適用するのが律法学者と呼ばれるパリサイ人たちでした。当時彼らはモーセ律法613に様々な細かい区分、解説をつけて人々をがんじがらめにしたのです。それが福音書で先祖の言い伝えとか戒めと呼ばれるもので、イエスはこれを激しく非難しました。使徒パウロもこれと戦ったのです。ここの理解が深まると4福音書やガラテヤ書、ローマ書の理解が深まります。
20~分かりにくい箇所なので要約しながら話します。
パウロは旧約聖書創世記を引用して真の律法の意味を教えています。アブラハムの妻サライの女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルの流れがユダヤ教であり、妻サライから生まれた約束の子イサクの流れがキリストにある自由、新しい契約であると主張します。

また27節でイザヤ書54章から引用し、不信仰によってバビロン国に連れ去られたユダの人々を恵まれない不幸な女性にたとえています。イスラエルが憐れみ深い神の恵みによって裁きから祝福に逆転する事を預言しています。ところがパウロはこのイザヤ預言をモーセ律法とキリストによる救い、キリストにある自由とに対比させてガラテヤ人に語り掛けているのです。いわゆるパウロの再解釈です。
今迄の話を踏まえて、パウロはガラテヤ教会への悪影響を排除するために女奴隷の子、イシュマエルに代表される「かき乱す者たち」律法主義者、異邦人キリスト者に割礼と律法遵守を強制する者たちを追い出さなければならないと強く勧めているのです。パウロは福音の真理に根ざしている者たちこそ自由の子供達であると語ります。

○4:31~5:1自由にされたキリスト者
そういうわけで、結論部分です。キリスト者はイエス・キリストの十字架の死と復活の御業を信じて救いを受け、真に自由にされた者であります。死と罪から解放されたものです。
誤解の無い様に申します。自由を踏まえて何でもしてよいのだと思い違いしてはなりません。自由には節度と責任が伴います。好き勝手な事をすることが真の自由ではありません。

適用
○律法は何を教えるか。
私達を神が愛しておられる事、私たちが神と人を愛する生き方をしなさいという事を教えています。この視点に立って律法の意味するところを丁寧に学び取ってまいりましょう。
例えば、私達の教会で小さく始めたフードバンクの働きは律法主義の考え方からでは発想が浮かびません。律法主義から出てくるものは人のあら捜しや、人を責め、さばく心ばかり多くなります。
でも神に愛され、神を愛し、隣人を愛そうという生き方からは自然発生的に愛の業は広がっていくのです。これがキリストの心を生きる事です。これからも律法の真の意味を理解しつつ自由をいただいたものとして歩ませていただきましょう。

結び 暗唱聖句 ガラテヤ5:1
律法主義の冷たさは何でしょうか。例えば福音書にはイエスに対しパリサイ派の学者たちはいつも激しく陥れようとして仕掛けてきます。安息日に病人を癒す事はしてはならないとか、安息日に麦の穂を摘んで食べる事は律法に違反していると言って責めます。時に姦淫の現場で捕らえた女性を利用してイエスを陥れ様と攻め立てます。赦しや寛容さ、人を愛する心や思いやりは全くありません。自分が決めた信仰の基準を守り続けそれに合わない人を見てこれはだめ、あれは駄目といって全て切り捨てます。そのような信仰を何と言うか皆さんご存知でしょうか。キリステ教と言います。これが律法主義に冷たさです。

私達はこのような冷たい律法主義から解放されキリストの心を自分たちの心とする自由人として生きる者と変えられてまいりましょう。