マルコの福音書(77)

2022年12月13日

2018年7月15日
聖書箇所:マルコ16:2~8
宣教題:開いた墓 

おはようございます。今日もご一緒に聖書から学んでまいりましょう。前回までの流れを確認しますと、イエス様は金曜日午後3時に十字架上で死なれ、その日の夕方に墓に納められ、翌日土曜日にローマ兵により墓石が封印され、墓は番兵によって厳重に守られていました。そして週の初めの日の朝早く女性信者たちがイエスの墓の所に来たというのが先週までの話になります。

この先何があったか。それぞれの4人の福音書記者たちがそれぞれの視点から書いていますので、時間順に沿って見ていくと全体像が分かります。
①ヨハネ20:1にはマグダラのマリヤが一番乗りで日曜日の朝暗いうちに墓に来ている事が分かります。直に開いた墓を発見します。彼女はイエスの体が盗まれたと思い込んで、急いでシモン・ペテロとヨハネのもとに駆け付けます。彼らもまた直ぐに空になったイエスの墓に着きました。

②ルカ24:1、10を見ると他の女性たちも、朝早くお墓に来ています。マグダラのマリヤとは合流したようであります。この時大きな地震が起きています。マタイ28:2。因みにイエス様が十字架上で息を引き取った時も地震が起きています。マタイ27:51には「地が揺れ動いた」と有ります。
※ここで面白いのはマルコ16:3の女性たちの発言。「墓の入り口から、あの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうか」と話し合っている点。一般的に男性だと石を転がす段取りを考えてから行動します。女性の場合は行動してから考えるというもので昔も今も変わらないのかなと思われます。これはダメだということではなく女性の素晴らしい特性だと理解しています。

③マタイ28:2~4。主の使いが天から下りて来て石をわきに転がして座ったので地震が起きました。彼らの様子についてマタイは述べています。姿かたちは稲妻のように輝き、その衣は雪の様に白かった。これを見たローマの番兵は、恐ろしさの余り、震えあがり死人のようになった。

④マルコ16:5~6。次に女性たちが墓の中に入ります。ここで二人のみ使いたちが女性たちを励ましています。「ここにはおられません。よみがえられたのです」女性たちは非常に怖がります。これは極めて当然の感情ですね。」ただし驚き、恐れと共に喜びもありました。

⑤マタイ28:7。イエスが死人の中からよみがえられた事をお弟子達に知らせなさい。

⑥マルコ16:8。知らせを受けて急いで使徒たちのところへ向かう姿があります。彼女たちの慌てぶりが目に見える様です。逃げ去った。震え上がった。気も転倒していた。誰にも何も言わなかった。恐ろしかった。マタイ28:8を見ると、恐ろしくはあったが、大喜びで急いで墓を離れたと記録されています。彼女たちの驚きが伝わってくる感じですね。

ここまでが週の初めの日に復活の主イエスに出会う前の流れです。間もなく女性達や使徒たちは復活の主イエスに出会い聖霊を受けます。ここまでの話の流れを見ると、イエスの十字架刑の死から週の初めの日に至るまで、ベタニヤのマリヤを除いてほとんどの人たちが十字架の死や復活について意味を正確に理解している人はいなかったということになります。

適用 イエスの十字架の死と復活は事実でという前提に立ち自分との関係について適用しよう。
①イエスは神の御子である。ローマ1:3~4
三日目の復活によってイエスは神の御子であることが公にされました。死人の内より甦られたお方は世界中でただ一人イエス・キリストだけであります。
この時点では、まだ女性達や使徒たちは復活の主イエスとは出会っていませんが、この後直ぐに会う事になります。私達も未だイエス様とは直接お会いした事はありませんが、使徒たちの書かれた言葉、この新約聖書を通してイエスの十字架の死と復活の意味を知り、ただ信じるだけで救いを受けました。やがて主イエスと顔と顔を合わせて合う事になります。最大の喜びです。

②イエス・キリストは初穂となられた。Ⅰコリント15:20~22
 これから稲の穂が出る季節です。初穂を見た事がありますか。最初に出てくるのが初穂です。
何日かすると一本の稲穂から数百の米粒が出てきます。これと同じようにキリストは初穂となりました。それに続く者がいるという事です。それは誰か、イエスを救い主と信じた者たち。つまり私達が初穂に続く者なのです。

③私達は信仰によって神の前に義とされる。ローマ4:24~25
 キリストの救いを得るのはただ信仰のみである。信仰によって生けるキリストと連なり、神の前に正しいとされ、キリストの命を受ける。この命は一旦受けたら、ずっと受ける新しい命である。
結び
開いた墓の前で、女性たちはみ使いから「恐れてはいけない」「ここにはおられません。前から言っておられたようによみがえられました」という言葉を受けました。何という希望に満ちた励ましでしょうか?
この復活からくるイエスの救いを受けるには何かの良い業や行いが必要でしょうか。あるいはもう少しまともな人間になってからでないとキリストの救いを受ける資格がないのでしょうか。ここがポイントですね。多くのクリスチャンがこの点を誤解しています。ある人は救いの条件として信仰プラス礼拝出席厳守、十分の一献金厳守、酒、たばこ厳守ではなく禁酒、聖書を読むこと厳守、まじめに頑張って信仰するように思い込みし、また教えこまれます。そうするとキリストの福音+頑張り信仰や奉仕をしていないとダメな信仰と考える律法的な福音となり、信仰が疲れやすい人となります。そして人と比較し、人のあら捜しばかりする、嫌なくキリスト者となります。
この点を今日もう一度かんがえてみよう。救いを受けるのは、何の行いも、良い業も必要ありません。救いは神の一方的な恵みによるものです。そして救いを受けるにはただ信仰によってのみです。これを正しく理解しましょう。
出は救いを受けたどうするか。先ほど言ったように、何々せねばならない信仰ではなく、キリストの愛に答えて、聖霊の力に励まされて、この地上生涯でキリストの僕として生きるのです。自分に与えられた賜物を生かし、未信者の世界の中に入って良い業に励むことです。具体的にはイエス様が罪人、取税人を愛し、仕えたように、私達もこの世界の中で社会的に弱い立場の人の側に立って、愛し仕えていく事が大いに望まれています。
私達日本人クリスチャンは愛を語りますが、愛の業を実行するのは少ない様に思います。特に福音派とよばれる私達は今まで伝道、伝道で、家族や地域の人への良き業や愛の業に生きる事はまだまだ足りません。開いた墓を見、復活の主イエスを信じる者として、大いに変えられ続けて歩んでまいりましょう。