マルコの福音書(70)

2022年12月13日

2018年4月8日
聖書箇所:マルコ14:26~42
宣教題:主のみこころが第一 

おはようございます。今日もマルコの福音書から学んでいきましょう。
まず前回までの流れを確認します。イエス様たちは木曜日の夜6時から過ぎ越しの祭りの食事が始まりました。イスラエルの暦ではすでに金曜日になっています。イエス様は十数時間後に十字架で磔になる事を知っていました。でも弟子たちは誰一人知りません。食事はフルコースですので4~5時間がかかります。夜遅くに終わりました。最後に詩編を歌い過ぎ越しの食事は終わります。

26~31:オリーブ山まで出かけます。ここでイエス様は弟子たちがイエスに躓くと言いますがペテロたちはそんな事はないと言い張ります。しかしイエス様の言葉通りペテロは鶏が二度鳴く前に、三度イエス様を知らないと言ってしまうのです。一行は更にゲッセマネの園へと向かいます。

32:ゲッセマネの園に着きました。ここでイエスは父なる神に向かって必死に祈りを捧げます。ゲッセマネは「オリーブの絞り場」という意味です。ここはオリ-ブ山の西側にありエルサレムの城壁に面していた場所にありました。この園にはオリーブの木が沢山あり、オリーブ油を作る為に、文字通りオリーブの実を絞っていた所です。それ故ゲッセマネという名前が付きました。
イエス様はこのところで3回祈られたのですが、今日は特にこの祈りを通して学んでいきます。
まず園の入り口に弟子たちを残します。この時既にイスカリオテ・ユダはイエスを裏切り指導者たちの所にいきましたので、弟子8人を入口のところに残しました。ボディガード役です。
33:そして3人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて行き、身近に置いて祈られたのです。
ここでイエス様は深く恐れ悶え始められたと有りますが、ここは意味を確認していきたいと思います。「深く恐れ」と訳されていることばは、びっくりする、愕然とする、非常に心が乱れる、肝をつぶすという意味ですのでその流れで理解すると分かりやすいです。「悶え始められた」は不安、心配、重く感じるという意味があります。
そうするとここでの解釈はイエス様が何かに非常に驚き、心が乱れ、重い荷を載せられたと理解した方が実情に合っていると思います。何に驚き戸惑うかは後でわかります。(文語訳が良い訳)
34:イエス様は今肉体の死をもたらすほどの悲しみを経験して祈っています。
35~36:私はここをイエス様が十字架の苦しみを避けたい、しかし御心のままにという風に理解していましたが、33節の意味が非常に驚き重い荷を載せられたと変わるとそんな薄っぺらな事ではないようです。
続けてイエス様は祈ります。もしできる事ならば、この時が自分から過ぎ去るようにと祈ります。その内容は、どうぞこの杯を私から取りのけて下さいという祈りです。ではこの杯とは何か、苦しみの十字架刑ではありません。何故ならイエス様は以前から何回も十字架の死を予告していましたし、そのために来たとも言っています。又その時が来たとも言っています。ルカ19:10、ヨハネ12:27、ヘブル10:5~9、ピリピ2:8、ならばこのレベルで今更十字架刑を恐れる必要はないのです。聖書で杯というと、罪に対する神の怒りを表しています。黙示録14:10、イザヤ51:17、詩篇11:6、75:8。即ち神の怒りの杯を飲むものは罪人に対してなされるものです。神から切り離された不信者が神の怒りの裁きを受けるのです。
イエス様は神が人となられたお方であります。しかしここでは人としての性質を持つ主イエスが父なる神との霊的死、父なる神との断絶、分離すつ事を知って、驚き、惑い、深く悲しんだのではないでしょうか。私達人間には父なる神と子なる神との分離がどのような意味を持ちか、到底はかり知ることが理解することは出来ませんが、十字架刑を受けた時、イエス様は全罪人の立場をとられ、その代表として「わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれ絶望の極みにまで苦しまれました。しかしイエス様は罪人としてこの様な苦しみの死を経験することにより人を救う完全な大祭司となられたのであります。ここにキリストによる救いの確かさがあります。それは私達の確かさではなく、主イエスの御業の確かさからくる変わらない救いの確かさであります。
36節の祈りに戻りますが、主イエスは、しかし、とありますので私の願う事ではなく、あなたのみこころのままをなさってくださいと祈りました。ここがポイントですね。

37~38イエス様が戻って来るとペテロたちはすっかり眠りこけていました。睡魔に襲われてどうしようもなかったのでありましょう。一時間さえも目を開けて祈ることが出来なかったのです。これから受ける試練のテストの為に祈り続けよ。続けてイエス様は弟子たちに励ましの言葉をかけました。心は燃えていても肉体は弱い。心ではキリストに従いたいと願っているが、体がいう事を聞かない。この言葉は大切。体を休める必要を大いに感じているのは私だけではないと思います。
39~40:二回目の祈り。
41~42:3度目に戻られたイエスは弟子たちを励ます。ここでも眠ってしまっていた弟子たちに対し、お前たちはダメだなという感じに言っているように読めますがそうではありません。今は眠って休みなさい。今の眠りは次の行動の為に必要な眠りだからOK。立ちなさい。さあ行くのです。裏切るものが来たのだからとイエス様は、3人の弟子たちを励ましている。(文語訳が良い)
ここまでがイエス様のゲッセマネの園での祈り、逮捕される前の所です。適用する。
適用
○みこころとは何か
イエス様は完全な神であり、完全な人であります。罪が無いお方ですから神の怒りの対象ではありません。しかしイエス様は罪が無い方であるのも拘わらず、罪人の代表として、私達罪人の身代わりとなり神の怒りの杯を受けたのです。神であるお方がこのような立場を受けるのに驚きと戸惑いがありました。それ故イエス様は最初この杯を取りのけて下さいと祈られたのです。このイエスの困惑を私たちは十分に理解することがしきれません。
しかし更に進んでイエス様は祈りの中で主の御心を求めていったのです。
ここに私達キリスト者の信仰成長の鍵があります。特に信仰生活の大切な局面にあって、主の御心はどこにあるのだろうか。何が主の御心なのかを探り祈ることは重要です。あなたは如何ですか。主のみこころとか自分のお心に関係なく生きていますか。是非主のみこころを求めて生きる習慣を身につけましょう。自分の思いに合わせて勝手に判断しない主のみこころを求めましょう。
○選びとり
主のみこころが分かったら次は選び取って従い実行する事です。ある人は実行しないので信仰生活が赤ちゃんのままです。何回も神による同じテストの繰り返しを受ける事になります。クリスチャンでありながら信仰的にも人間的にも全く変わらない信仰生活をしているとどこかずれます。主の心から遠く離れています。ですから喜びや感謝もなく同じ生活の繰り返しです。主のみこころが分かったら迷うことなく、みこころを選び取っていくと信仰生活は目に見えて成長するのです。
結び
今日は折角良いイエス様の模範の祈りの箇所を学んだのですから主のみこころは何かを考え、御心が分かったらそちらを選ぶ、このようなキリスト者にさせていただきましょう。主のみこころが第一。これを選び取る人は100倍の祝福を受けます。自分の考え思いを優先する人は一生同じことの繰り返し、ベイビィ信仰のまま一生我儘クリスチャンで終わります。あなたはどちらを選ぶか。