マルコの福音書(69)

2022年12月13日

2018年4月1日
聖書箇所:マルコ16:1~8
宣教題:驚きから確信へ 

おはようございます。今日はキリストの復活をお祝いする復活祭ですのでマルコの福音書16章から復活に関する聖書箇所からお話しさせていただきます。私達はいきなり死んだ人が甦るとか、キリストの復活と言われても最初は意味が良くわかりません。私もそうでした。キリストの復活があったとしても自分とは関係がないと思うと何の感情も沸いてこないものです。へー。だから何なのという感じですかね。
しかし聖書を読み自分の罪深さ、天地の創造主の存在、イエス・キリストについての理解が始まるとだんだんキリストの十字架の意味や、復活が分かるようになります。そしてイエス様を救い主と信じて救われると復活が体験的に分かってきます。
では聖書の世界で最初にキリストの復活に関係した人たちはどのような状況だったか、聖書記事を読むと驚いたり、恐れたり、疑ったり正直に書かれています。それでは見てまいりましょう。

私達は今まで14章でイエスと弟子たちの最後の晩餐に関する記事を見てきました。木曜日の夕方6時以降の話です。聖書の暦では既に金曜日になっています。この後イエス様は十数時間後に十字架につけられ苦しみ死ぬ事が待っていました。そこまで前回学びました。そして、夜中からイエス様はユダヤ人による不当な逮捕、大祭司の家に連れていかれ、侮辱を受け、たたかれ、不当な裁判を受けます。後にローマの総督ポンティオ・ピラトによる裁判で有罪とされ、30キロあるような木を担いでふらふらになりながらゴルゴタの丘まで歩いていきます。朝9時にゴルゴタの丘で二人の犯罪人と共に十字架につけられ、午後三時まで苦しみぬかれ後に完了したと言って息を引き取ります。十字架の御業が完了したという意味です。そしてイエス様のみ体はアリマタヤのヨセフという人物を通して丁寧に亜麻布に包まれ、岩をくり抜いて作った墓に安置されます。墓の入り口は大きな石で封印されて開けられないようになっており、更に番兵が墓の番をしていたのです。ここまでが15章までの内容です。

16:1~2:安息日が終わったので:日本で言うと、土曜日の日没になったという事です。土曜日の夜になれば安息日が明けるので自由に行動できます。3人の女性たちが油と香料を買う。これは葬式の為イエスの体に塗る故の行為です。彼女たちはイエスを信じていた人々です。でもこの時点ではイエス様が復活するという事は考えてもいない事でした。
とにかく彼女たちは葬式の準備にと夜の内から行動して日曜日の朝、日が上った時には墓についていたのです。マグダラのマリヤだけは日曜の暗いうちに墓に着いて、来た時既に石が取りのけられていました。

3:女性たちの行動。ここで面白いのは彼女たちの行動です。考えるよりも先に行動している点です。男の人だと普通墓石を開ける為に数人の男の人を連れてきますが、彼女たちの場合は既に行動していて、後から封印されている石をどうするか心配しているのです。
4:でも彼女たちが来た時にすでに石は取りのけられていました。別の福音書を読めばわかりますが、み使いによってあの重い石は取りのけられていたのです。
5~8:墓の中に入るとは、壁のような岩をくり抜いて造られたお墓でしたので、日本のイメージでいうと洞窟という感じでしょうか。大きな石が取りのけられていれば、簡単に中に入ることが出来たのです。彼女たちはイエス様のことが心配なので中に入りました。すると真っ白な衣を着た青年がいたのです。これはみ使いの姿であります。ここから彼女たちの驚きと恐れが始まります。5節、6節、復活の宣言、十字架につけられたイエスはよみがえられました。7節、そしてガリラヤに行かれます。ここでお会いする事が出来ます。突然の出来事である事、今まで見た事の無いようなみ使いの輝きがあったと思います。8節を見ると女性たちの驚き、恐れる姿がよくあらわされています。詳しく説明する。
逃げ去った。震えあがった。気も転倒した。恐ろしかった。
彼女たちの行動が見えるようですね。正直に書かれています。日本的に言うと腰を抜かすような驚きだという事です。

これがまだ復活のイエスとは会ってはいませんが、墓の中が空っぽになった時に、み使いによってイエス・キリストの復活の宣言を受けた時の話です。正直な姿ですね。私達もその場に出くわしたら同じようになっていたでしょう。それ以上に腰を抜かして動けなくなっていたかもしれません。
この様にしてイエス様は週の初めの日すなわち日曜日の朝早く傷は残っていましたが栄光の姿、体に変わって復活し多くの人々にご自身を現わしました。そして使徒1:3栄光の体のままで40日間多くの弟子たちに現れ、数多くの確かな証拠をもってご自身の復活を示されたのです。
イエスの復活に当たり最初は女性達だけではなく使徒や弟子たちも驚きや恐れがありましたが、復活は夢、幻ではなく現実なのだと受け止め確信を持つに至りました。
使徒1:13~14になりますとイエスの約束の言葉を聞き天に帰られるイエス様を見送り、また使徒達や女性の信徒たちは確信に満ち心を一つにして祈りに専念していたのです。以上簡単にイエスの復活について見て生きましたが私達との関係で見ると復活はどんな意味があるのでしょうか。
適用
キリストの福音の三要素、キリストは聖書の示すとおりに私達の罪の為に死んだこと、墓に葬られた事、三日目によみがえられた事を信じたら救いを受けます。これはキリストの力により目に見えませんがキリストとつながり一つとされ、キリストの復活の命を受けたという事です。これがキリストの復活を信じて私たちが受ける大前提なのです。
①キリストは私達が死んでも生きる為に復活したのです。
②私達も地上の生涯を終えた時にキリストと同じような復活の栄光の体に変えられます。
③私たちが将来に持つ栄光の体とは血肉の体ではなくキリストの復活の体と似ている体です。
④これらの根拠はイエスキリストが死を打ち破り栄光の体で復活したことです。
結び
婦人たちが驚きや恐れから確信に変わったように私達も栄光の体に変えられる未来が見えているので希望があります。それは信仰と恵みによりキリストと一つにされてキリストの復活の命を受けたからです。いつも個々の確信に立って信仰の歩みをさせていただきましょう。

私達はただ救いを受けて終わりではなくこの地上の生涯をキリストの僕として、キリストの心を心として生きる使命があります。それは一市民としてキリストにある良いわざに励むことであります。それぞれに与えられた賜物は違いますが、自分が受けた賜物を最大限に発揮しつつ置かれた地域でキリストにある良いわざに励むこと。教育、政治、福祉、社会事業、医療、農業、ビジネス様々な分野があります。あなたが受けている賜物はどんな分野で生きる事ですか。キリストの僕として復活の命、新しいキリストの性質を受けたものとして自分に出来る事を喜んで成して主に喜ばれる生涯を歩ませていただきましょう。Ⅰペテロ1:3~5。最後に読む。