マルコの福音書(60)

2022年12月13日

2018年1月21日
聖書箇所:マルコ12:38~44
宣教題:パリサイ派の本質とは 

今迄様々なリーダーたちの攻撃を退けてきたイエスの姿から学びました。今度は逆に律法学者・パリサイ人に対してイエスの糾弾とイエスの思いが注ぎ出されています。詳しく書かれているのはマタイの福音書23章です。何故かお分かりですか。そうです。マタイは主にユダヤ人読者を想定していますので詳しく書いています。彼らに対するイエスの愛が注ぎ出されています。
でもマルコはギリシャ人やローマ人読者を想定して書いた書物ですからパリサイ人に対する文章は12章38節~40節と超短いですね。そのいう訳で今日の箇所は短いです。実はやもめのところも一緒に考えていたのですが、今日は読むだけにして次回やりますのでご期待ください。
そしてやもめの記事が終わるとキリストの再臨がテーマですので目が離せないですね。ここは13章全体なので長いですね。まず今日の聖書箇所について状況確認致しましょう。場所は引き続き神殿、イエスの周りにいたのは群衆とキリストの弟子達です。何曜日の話か、十字架に掛かる最後の週の火曜日です。火曜日は長くて中身の濃い日ですね。

38:律法学者達には気を付けなさい。律法学者達とはパリサイ派とよばれるグループに属する人たちです。紀元1世紀のユダヤを宗教的に支配していたのはサドカイ派、神殿経営、様々な宗教儀式ですね。合理主義者であることは前に学びました。もう一つのグループがパリサイ派、これは律法学者と呼ばれ主に、モーセ5書を解釈して人々に教える人達でした。ところがモーセ律法を正しく解釈して日常生活に適用して教えるのではなく、その理念からはるかに遠い、口伝律法、口で伝える律法を作り人々に教え一般民衆の生活を縛っていた人たち、これを律法学者と言います。イエスはこの人たちに警戒するようにと一般民衆とキリストの弟子たちに呼びかけたのです。

ところで律法学者の何を注意しなさい、警戒するように教えたか。その根本は偽善です。彼らはもっともらしいことを言うが実行しない。これが彼らの本質「偽善」です。人々にもっともな感じの事を教えるが実は自分達は全く守らないで民衆に押し付ける。英語ではハイティチング、ロウリビングですか。特に聖書からかけ離れたことを教える。聖書の教える内容と違う解釈を押し付ける。そして自分たちだけが利益を貪っている。その良い例はまで見た通り安息日律法の解釈ですね。
具体的な行動をイエスがのべています。
①長い衣をまとって歩き回る
これはいかにも信仰深そうな服を着て見せるという事です。当時の服装は服の下の部分四隅に房を付け青い紐をつけていました。この房に着ける紐を付けるのはモーセの律法に出てくるので聖書の言葉にもとづいています。意味するところは自分達が特別に神の恵みに預かっている事を覚える事でした。それを彼らは殊更紐を長くして人々に自分たちは信仰深いのだと見せたのです。しかも多くの人に見える様にゆっくりゆっくりと歩き回るというのです。
②広場であいさつされるのが好き
マーケット、市場の事、多くの人がいるところに出かけて、○○様、おはようございます。ご機嫌如何ですかと挨拶を受けるのが好きだという事です。別に用事はないのです。人から挨拶を受け、挨拶を受けると自分が何だか偉くなったように感じるのです。感覚がマヒしてしまうのです。好んで出かけて自分をアピールするのです。広場であいさつされるのが好き。それがここの意味です
③上座が大好き
これはすぐにわかりますね。会堂、ユダヤ教の会堂、シナゴークで座る位置。宴会をする時も上座が大好き。そこに自分が座らないと気が済まない。自分は人と違う、偉いと思い込んでいる。
④やもめの家を食いつぶし、見栄を飾る為に長い祈りをする。
夫を亡くした女性、女やもめは生活が大変になります。モーセ律法ではそのような人を守っていくのが指導者の役割です。ところが彼らは逆にやもめの財産を取り上げたのです。方法は高額な献金を迫るという事。そしてその行為を正当化するために長い祈りをして人の目をごまかすのです。こんなに長く祈って決めた結果でしたと言って自分の行いを正当化する。これが彼らのやり方、口でいう事と実際の行為がかけ離れている。イエスはこれを指摘したのです。偽善の本質。ここをイエスは見抜いてパリサイ人たちは人一倍厳しい裁きを受けると警告し民衆や弟子達に気を付けよと注意を与えたのです。この4つがイエスの告発内容です。
適用 自分たちへの適用
1、誠実に生きよう
誰でも言う事と実際行うる事違う時があります。そのような意味ではパリサイ人と同じです。しかし出来うる限り神の前に誠実に生きようと願っています。主の前に誠実に生きようと願う姿勢を持ち続ける。この姿勢を大切にしながら聖霊に励まされて歩んでまいりましょう。
2、人を縛らない、又人に縛られない生き方をしよう
 皆さんはカルトという言葉を聞いた事はありますか。
○宗教カルト
恐怖心をあおって信者の心を縛っていく。外部の人の言う事に耳を傾けさせない。自由な考え、行動、発言を認めず信者の心を支配する。指導者が絶対権力を持つ。心が支配されるとやたらと恐怖感を持ち、生活を楽しむとか、自由な発想で物事を考えて行動することが出来なくなる。私たちは人を縛らない、又、人に縛られないで明るく、元気で、のびのびと、自由な信仰生活にされよう。
○経済カルト
ノルマを決めて長時間労働。達成来ないと刑罰。お前はダメだ。お前が悪いと追い込んで自信を無くさせる。徹底して弱みに付け込んで罵倒する。休みを与えないで追い立てる様にして仕事人間にしていく。経営者の独裁。社員を人間として扱わないで物とみる。ダメと見るやポイ捨てする。
○社会福祉カルト
福祉を金儲けの手段とする。隠れて障害がある人に暴力をふるう。ののしり罵倒して人格を傷つける。弱みに付け込み、力関係を示してものを言えなくしてしまう。
このように人を支配する事がいたるところで行われています。あなたが見たら勇気をもって隠さないで公にしていく事が大切です。
3、むすび(人として)
○どのようなリーダーになるか。
私たちは立場上人の上に立つことがよくあります。小さな組織であってもリーダーはリーダーです。その時にどのようなリーダーになるか、人の前にも神の前に誠実であれ。
○またどのようなリーダーには従わないのか。
聖書のみことばの原則に立たないで信者を支配する人には従うべきではありません。
○私たちはどのようなリーダーに従うか。
キリスト信仰者であるなしに関係なく聖書の、みことばの原則に沿って生きようとするリーダーを認めて従う事です。
私たちはもう一度、パリサイ人の姿を見て、聖書の世界だけの人と思わない方がいいです。自分たちの内にも本質的に偽善的な思いや行動がある事を自覚しながら、聖霊によって、聖書の原則に立って歩んでいけるように主を見上げてまいりましょう。そうならなければパリサイと同じです。