マルコの福音書(59)

2022年12月13日

2018年1月14日
聖書箇所:マルコ12:28~37
宣教題:聖書のゴールは何か 

今年二回目の礼拝となりました。今年はどんなスタートを切りましたか。穏やかな正月でしたか。私の場合は4日にお世話になった方の葬儀があり出席しました。いつ何があるか分からないのが人生であります。また懐かしい人との出会いもありこれから連絡を取りあう事を確認しました。いずれにしても新しい1年を主に信頼して歩んでいきたいと願っています。それでは今日も聖書を学びましょう。マルコの福音書12:28~37です。この聖書箇所はイエスが十字架に掛かる3日前、即ち火曜日の出来事です。

今迄の話の流れを確認するとイエスに対する敵対勢力が次々に出て来て攻撃してきます。4つのグループ。最初は祭司長とパリサイ人、2番目はパリサイ人とヘロデ党、3番目はサドカイ人、そして今日は4番目律法学者(パリサイ派に属している)がイエスに質問します。ただ今日のこの4番目の律法学者は、今までの巧妙な罠を仕掛けるという感じはしません。それはイエスがサドカイ人の質問に対して見事に答えたのを見て何故かすっきりしたからです。では流れを見ていきます。

①律法学者の質問28②イエスの答え29~31③律法学者の発言32~33④イエスの答え34⑤イエスの問いかけと答え35~37。このような流れになっています。

1、律法学者の質問28
いつもパリサイ人は復活の議論をサドカイ人から持ち掛けられ打ち負かされていました。それ故この律法学者はイエスとサドカイ人の議論を聴いていてイエスが素晴らしい答えを見事にしたので驚いています。(見事に答えられたのを知ってイエスに尋ねた)ここではイエスに対する敵対心は感じられません。そのうえで質問している。すべての命令の中でどれが一番大切ですか。この命令とは何か。モーセ五書。モーセ律法の命令の事であります。イエスと律法学者たちの間では常識でしたので誰でもわかる事です。全部で613あります。この中で365の禁止命令(してはならない)と248の積極的命令(しなさい)がありますが、この613の命令の中でどれが一番大切ですかという質問をしています。これが律法学者の質問の意味です。

2、イエスの答え29~31
するとイエスが申命記6:4~5を引用して答えます。読む。イエスの言わんとすることは「あなたの全存在をかけて神を愛せよ」というものです。二つ目は、レビ記19:18から答えを引用します。隣人を自分と同じように愛しなさい。よく、自分を愛する事をわざわざ付け加えて3つの愛という人がいますが、自分を大切にすることは当たり前のことなのでここでは強調してはいません。それ故この神をあなたの全存在をもって愛し、それと同じように自分を大切にすると同じようにあなたの隣人を愛しなさいという事になります。モーセ律法は私達にたかりかける最終ゴール、要約するとこの2つだと教えているのです。私もようやくわかりました。

3、律法学者の発言32~33
質問した律法学者はイエスに対して心が開かれていますのでイエスの答えに同意しています。良くわかったのだと思います。それ故、全勝の生けにえとして動物を捧げたり、様々な供え物を捧げるという儀式行為よりもイエスの述べた生き方を支持してイエスの答えに対して心が開かれ救いんお一歩手前まで来たのです。

4、イエスの答え34
この律法学者はイエスに対して心が開かれて、賢い答えをしたのでイエスは「あなたは神の国から遠くない」と言って彼を高く評価したのです。賢い答えとは、よく考えた物わかりの良い答えをしたという事であります。
この後この人はイエスを信じて救いを受けたかどうかは分かりませんが、個人的には救いを受けたのではと思いたいところです。

5、イエスの質問と答え35~37
イエスが宮で教えておられた時とは、これは同じ日、火曜日の出来事であります。
パリサイ人たちはイエスをメシヤ、救い主だと信じていません。神から遣わされた神の子であると認めていないのです。それ故ここではイエスが先手を打ってパリサイ人に質問します。
35:どうしてキリストをダビデの子というのか。
36:ダビデ自身が聖霊によって読んだ詩篇にはキリストを主、神と呼んでいるのに、どうしてキリストはダビデの子なのと言って彼らのメシヤ理解を正しているのです。
確かにメシヤは人間ダビデの家系から誕生します。しかし彼らはメシヤがそれ以上のお方であることを理解していませんでした。そこでイエスはパリサイ人に対して再び問いかけます。詩篇110篇の預言的詩篇。主は:ハヤウェ、父なる神という事。私の主(アドナイ)即ちキリストは神である。この様にダビデ自身がキリストを神・主と呼んでいるのに、どうして単なるダビデの子孫なのかと問いかけたのです。即ちここでメシヤであるイエスは完全な人であると共に完全な神であるという事なのです。一人の人間が二つの面、人であると共に、神であるという視点を教えています。この視点を私たちも忘れてはなりません。
適用
○神を愛し、人を愛する、2つの愛に生きる
神を愛する事。またこれを土台にした隣人愛。自分を愛するように人を愛する。これが私たちの生き方です。ある人はそのように言うが私には実行力がないので出来ないと言います。それは分かっています。確かに自分の力で愛に生きようとすると出来ません。でも内に住む聖霊に励まされて一歩一歩成長しながら実践する事が出来ます。そして振り返って年数がたつと成長しています。
○2つの性質を持つイエス理解
イエスは真の神であります。父なる神と共にこの世界を全てつくられ今も支配し治めているお方です。このイエスは私たちが真の神を知る為に人となって下さいました。但し罪はありません。そして私達に人の生き方の模範を示してくださいました。そして私たちの罪の為に十字架に掛かって死に、葬られ、三日目によみがえりました。今日も私たちと共にいて下さいます。このイエスを見上げて歩んでまいりましょう。
結び
私たちの救い主イエスは神であると共に人であるという事を確認しながら歩んでいきたい。そして神への愛を土台として隣人愛にこころを砕いていきたい。この神への愛と隣人愛の生き方こそ聖書の示すゴールです。100%は誰も出来ません。でも私たちの心のうちに住む聖霊によって愛を実践するものでありたい。また隣人愛の形はみな違います。それぞれの賜物や能力、環境はみな違います。それぞれが出来る事を喜んですれば良いのです。
今週も聖書のゴールを目指して新たな思いをもって歩んでまいりましょ