マルコの福音書(56)

2022年12月13日

2017年11月26日
聖書箇所:マルコ12:1~12
宣教題:見捨てた石が礎の石になった 

今日の聖書箇所は先週の続きです。復習してみましょう。十字架につけられる週の火曜日に、神殿にいたイエスのところに祭司長、律法学者たちが訪ねてきました。勿論友好的な関係を作る為ではありません。権威というテーマを使って質問しイエスを陥れ、群衆を扇動してイエスに敵対させる為に来たのです。しかし逆にバプテスマのヨハネについての逆質問をされてしまい答える事が出来ず、逆に追い込まれてしまいました。彼らが答えに窮した時、イエスは多くの群衆がいるところで一つのたとえ話を用いて彼らに彼ら自身の本当の姿を示していったのです。ですから今日の話は前回の続きで連続した流れになりますので確認しながら学んでまいりましょう。
1:このたとえは祭司長や律法学者たちが、今までやってきた事、またしようとしている事がどのような事であるかを本人たちや群衆に知らしめるために話したたとえ話です。
2~9:ある人がブドウ園を作って農夫たちに貸し出して旅に出かけた。当時主人は町に居て郊外にぶどう畑を持っていましたからこれは普通の話です。収穫の季節になるとブドウ園の収穫の分け前を受け取る為にしもべを遣わした。
3:ところが彼らはしもべたちを袋叩きにして送り返してしまいました。
4:もう一回主人はしもべを送ったが今度は頭を殴りつけ辱めました。
5:次は別のしもべを遣わしたが殺してしまった。続いて多くの僕を送ったが、袋叩きにしたり、殺したりしてしまったというのです。
6:寛容で心の広い主人は、必ず今度は敬ってくれるだろうと思い愛する息子を送ります。
7~8:彼らは、跡取り息子だから殺してしまえば財産が入ってくるので殺してしまえと言って息子を殺してしまいました。
9:このあくどい行為これに対してブドウ園の主人はどうするか。戻って農夫どもを打ち滅ぼし、他の人たちにブドウ園を与えてしまうというたとえ話です。皆さんはこの話の中でイエス様は何を言わんとしているか理解できるでしょうか。

これはたとえ話なので必ず本質的な意味があります。その為には登場人物を確認する必要がありますので確認してまいりましょう。
○ある人、ブドウ園の持ち主⇒父なる神
○ブドウ園⇒イスラエルの民
○農夫⇒イスラエルの指導者
○僕たち⇒預言者たち
○息子⇒神の独り子イエス・キリスト
○ブドウ園の外に投げた⇒町の外で殺した。
○僕を3回迫害している⇒バビロン捕囚前、バビロン捕囚後、イエスの時代バプテスマのヨハネやその弟子達、またイエスの弟子達に対する迫害。
○農夫どもを打ち滅ぼす⇒彼らは紀元70年にローマにより神殿が焼かれ、多くの指導者が滅ぼされてしまいます。
○他の人たちにブドウ園が渡る⇒へりくだった取税人や罪人たちが信仰を持つ。イエスを信じて新しい祝された人生を回復する。こうしてみると話の流れが良く理解できてくるのではないでしょうか。続けて。

10:このことばは詩篇118篇からの引用。このみことばを知っているでしょう。
11:家⇒ここでは神殿。見捨てられた石。コーナーストーン。日本と違い石で建物を作る文化です。最初に置く石であり、最後の締めくくりの石でもあります。非常に大切な石である。この人に見捨てられ捨てられた石こそ、人に捨てられて殺されたイエス・キリストの十字架のみわざであります。これは不思議な事であり、主のみわざであります。
12:ここでやっとこのたとえ話は自分達を指してイエスが述べた事だと彼らは悟りました。そしてイエスを捕えようとしたが群衆を恐れたので立ち去って行ったのです。覚えていやがれということでしょうか。
適用
○思い込み
当時の宗教指導者、政治家である、祭司長、律法学者たちは自分達が間違っているとは思っていませんでした。逆にイエスの間違いを正すための正義を行っていると思いこんでいました。どこでどのようにしておかしくなってしまったのでしょうか。組織や自分たちの利益優先をするときに何が神の前に真実かが見えなくなってしまったのです。そして段々と傲慢になり神の心とは全く反対の行動をとるようになってしまったのではないでしょうか。
私たちも自分達は聖書的で正しい信仰だとか思い込みやすい人間です。しかし、こういう時こそ静かに神の前に出て聖霊様に取り扱われる必要があります。高慢は滅びにつながりイエスが最も嫌う事ですから、自分はひとかどのものに成ったというような高慢な心を捨てましょう。そして謙虚とか謙遜という言葉をもう一度確認して神と人の前に歩んでいきたいと思います。
○この世の評価について
では誰が神に喜ばれる人生を生きたか。聖書の時代でいうと取税人罪人と呼ばれた人々です。特徴は何か。悪事を行っていた自分の罪深さを認め、悔い改めて神であるイエスに信頼しました。彼らはこの世の中の評価は低かったのですが主の前に誠実に生きようとしました。彼らは神の前に高い評価を得ていたのです。人の目と神の視点は違います。
キリスト教会の牧師もこの世の立場は高くありません。私たちこの世の評価がどうかという事よりも、先ず神の前に謙虚に生きることが問われているのではないでしょうか。
結び
今日の聖書を通して指導者たちの生き方を他人事とはせずに自分達にも起こり得る事を思って自分の行動を顧みる必要がある事を強く覚えさせられます。あらゆる思い込みや、先入観を捨てましょう。また高慢を捨てましょう。
そして聖書をバランス良く学び著者がのべている事を理解して、みことばを実践してまいりましょう。そのうえで人々が見捨てた石であるイエス・キリストを見上げて、知恵を頂いていこうではありませんか。この真の礎の石、コーナーストーンであるお方こそ私たちの人生を確かな方向に導いてくださいます。お祈りいたしましょう。