マルコの福音書(54)

2022年12月13日

2017年11月12日
聖書箇所:マルコ11:19~25
宣教題:枯れたいちじくの木 

マルコ福音書の学びは最後の一週間を切るところまで来ました。状況確認をしましょう。11章1節~11まではイエスが十字架で死なれる週の初めの日です。12節で翌日とは月曜日、朝ベタニヤからエルサレムに向かう途中、空腹のイエス様はつぼみもついていないイチジクを呪いました。この意味はお腹がすいてイライラして呪ったわけではない事を確認しました。つぼみがなく葉っぱばかり生い茂っているイチジクは、外面ばかりを飾り、繁栄しているようなイスラエルの象徴でした。実は当時のユダヤ社会は枯れかけていたのです。それが呪いの意味です。続けてイエスは神殿に入り詐欺まがいの商売をする人々や不法な行為をする一般民衆に対して激しい行動に出ました。いわゆる宮清めと呼ばれる行為です。これによって指導者たちは群衆がイエスの方についていくのでイエスを恐れ亡き者にしようと考え相談をし始めます。一方群衆はイエスの教えはユダヤ教教師ラビたちの教えと全然違ったので驚嘆したのです。

今日の聖書箇所は翌日の出来事、即ち火曜日、十字架の3日前の出来事です。ですからイエスにとっては緊張感があります。一方弟子達にはまだそれほど緊張感はありませんが、イエス様から伝わるものがあったのではないかと思われます。今日の話は3つに分かれます。①夕方:19②翌日の朝20~21③祈りについての教えという事です。それでは学んでまいりましょう。
①夕方:19
月曜日の夕方、しかしこの日はユダヤの暦でいうと火曜日になっています。日没から一日が始まるからです。このままエルサレムで過ごすのではなく、都から外に出た。夜はエルサレム郊外で過ごし、祈りの時を持っていたと思われます。又エルサレムは祭りの期間であり人でごった返していました。また命を守るためにも郊外に出たのです。
②火曜日の朝:20~21
 朝早く通りがかりに見るとイチジクの木が根まで枯れていた。これは正確には根から枯れていたと訳す方が正解です。通常イチジクは春先に小さなつぼみを付けます。イスラエルではその小さなつぼみを調理して食べる習慣がありました。しかしこのイチジクは葉っぱだけ青々と茂っていましたが全くつぼみをつけていなかったのです。これは単なるイチジクの木の事でなく、イスラエルの霊的な状態を表していました。外面ばかり繁栄しているように見えるが内面は死んでいる。イエスはこれを言いたかったのです。ですからこのイチジクの木は根まで枯れていたのではなく、根から枯れていたのです。木は根元が枯れて、全体が枯れ始めます。これは大きな違いでイスラエルの霊的状況を表しています。今度の新しい新改訳2017は「根元から枯れていた」と訳されています。
21:記憶力の良いペテロの発言。驚いた弟子達を代表してペテロがたしなめる様にしてイエスに枯れたイチジクの事を言っています。主よ、ではなく、先生ラビと言う呼びかけであります。
ここで注目したいのは、イエスはイチジクの木が枯れた原因については何も語っていませんのでつながりがないでしょう。ここが理解しにくいのですが霊的命がないものはやがて枯れるのです。

※話は変わりますが先月のオイコス便りにキリスト教会には健康な教会と枯れる教会がある事を書きました。ある教会はいつの間にか形式的、表面的なことばかりに心が捕らわれています。すると中身の本質部分が忘れられ命を失ってしまいます。そのような教会は衰退しやがては枯れてなくなります。建物だけが残るという事です。本質を忘れた教会は日本でも多くなってきています。クリスチャンも同じです。形式的、律法的なクリスチャンはやがて喜びを失い、信仰が形だけになり良い香りを放せません。

③祈りについての教え22~25
22:神を信じよ
前提:信仰の基本は神への変わる事のない信頼。主は私に最善をなして下さる。神との人格的な交わりと信頼関係。これが神に聞かれる祈りの前提です。
23:山を動かす信仰
アーメン:大切な事を言います。山に向かって「動いて海に入れ」と信じて祈ったらその通りになります。これは誤解しやすいので少し説明します。山とはここで直接的にはエルサレムにいますので当然オリーブ山です。海と言えば近くにあるのは死海です。しかし本当に山が動いて海に入るかというと皆さんいかがでしょうか。実はいくら信仰により、確信して山に向かって「動いて海に入れ」と祈っても山は動きません。これはイエス様が良く使う手法で、強い印象を持ってもらうために誇張法(ハイプロボリー)という言い方で山は動くと言ったのです。日本的な例:余りのおいしさに「ほっぺた」が落ちそうになった。だれも「ほっぺた」が落ちた話は聞いた事がありません。

では何か:神のみこころと自分の心が一致して心の中で疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、その祈りは聞かれ、解決困難な事であっても道が開かれるイエスは言いたかったのです。
それを山が動いて海に入ると言ったのです。ただしその通りになるのは主のみこころの時がありますから私達にその時期は分かりません。
24:この条件があるならその祈りは聞かれている。実際の答えが無くても与えられたと同じだと信じる事です。
25:立って祈るのは当時のユダヤ人にとっては一般的であります。心の整理、信仰者は自分の罪を主に赦されているのだから、自分に罪を犯した者を赦すのが前提になる。

適用
○山を動かす信仰
実際に山は動きませんので安心してください。赤城山や富士山が動いてばかりいたら大変です。
そうではなくあなたの解決困難な事であっても主の心に適った祈りを捧げるなら道が開かれるのです。私たちも聖書の原則に立ち、主のみこころに従い聖霊によって祈り真に人を愛するものとして行動するなら聖霊が働くので状況は変わってきます。是非山を動かす信仰に立ちましょう。

結び
葉っぱばかりで中身が枯れているような自分中心の信仰ではなく、イエスのみこころは何かをいつも求めイエスの心を最優先する信仰の本質に立ちましょう。そうしたら私たちの信仰は枯れことなく、葉っぱも実も結ぶ生涯を送る事が出来るのです。勿論本庄キリスト教会も枯れてなく成長していきます。