マルコの福音書(52)

2022年12月13日

2017年10月22日
聖書箇所:マルコ11:1~12
宣教題:最期の一週間 

マルコの福音書を昨年の6月12日から学び始めて1年5ヶ月経ちました。この福音書は使徒ペテロの従者マルコがペテロから聞いたことをまとめて書いたと言われています。また福音書の中では一番初めに書かれたと言われています。特徴はテンポよく簡潔書かれているところです。「すると、すぐに、さて」という言葉が沢山出てまいります。そして今日は11章まで来ました。ここからイエスの最後の一週間が始まります。非常に中身の濃い所となりますので理解を深めて多くの恵みを受けたいと思います。①背景の理解②エルサレム入城の準備1~6③エルサレム入城7~11 
①背景 1節の初め
イエス様は33歳です。ご自分がメシヤとして人々の前に公に現れたのは30歳、神の子メシヤとしての公生涯3年半、今まで12弟子を選び神と人に仕えました。イエスの目指していたゴールは十字架のみわざを達成して人々を罪から救い出う事でしたので、この時点ではメシヤ的王国、千年王国をすぐ作るわけではありません。十字架の御業が終わった後、天に帰り、一定時間が経過した後、世の終わりの時に再臨します。そしてメシヤ的王国、千年王国を作ります。
しかし弟子達や他の人々の反応はすぐにメシヤ的王国、千年王国が出来てイエスが王になりローマから解放してくれるのだという期待感で満ちていました。ここにイエスの心と弟子や民衆の心のギャップがあります。それをまず理解しておく必要があります。
またこの時期の季節は新年をお祝いする過ぎ越しの祭り行われる時でした。今の暦で3月から4月にかけてです。イスラエルの人々にとっては新しい年をお祝いし、自分たちの先祖が昔エジプトの奴隷生活から解放されたことを記念するお祝いです。出エジプト記に書かれています。イスラエルの暦で最初の年ニサンの月の10日(ある学者によると紀元30年4月2日)そしてこの時一歳の傷の無い羊を屠って15日に食べます。この祭りには世界中からイスラエル人が集まりエルサレムに集まり人々でごった返していました。エルサレムに宿を取れる人は金持ちだけだったようです。一般の人々は周辺にテントを張って寝泊まりしていたようであります。この時15日の金曜日に、大祭司たちは本物の子羊を食べ、神の御子イエスは神の子羊として十字架上で苦しむのです。人々は気持ちが高揚していますが、イエス様は非常に張り詰めた気持ちをもってこの最後の一週間日曜日を迎えているのです。この点を踏まえて聖書を読みましょう。
②エルサレム入城の準備1~6 
イエスはエルサレム西2キロ、ベタニヤに近づいた時、二人の弟子を使いに出して、話をつけておいた場所に行ってロバの子を連れてきなさいと言われました。何か言われたら主がお入用なのですと言いなさい。3節は合言葉です。弟子が話すとこの通りになりロバを借りる事が出来ました。
何故ロバが選ばれたのか。ロバは平和の象徴、祭司や平和の使者の乗り物だからです。イエスは平和の君としてあえてロバを選び、エルサレム入城を果たします。因みに王の乗り物は馬になります。
参考までにもう一つ、5節何人かがとはロバの持ち主の事です。一人ではなく複数です。一匹のロバを持ち主が複数で大切にしていた、飼い主は特権にあずかっているという意識です。またこのロバの子に乗る行為はゼカリヤ9:9の預言でもあります。
③エルサレム入城7~11
ここからいよいよエルサレムへの入城となります。入城とは城壁に囲まれたエルサレムに入る事。当時の町は敵の侵入を防ぐために町全体を城壁で囲まれていました。
7:子ロバの背中はかなり乗りづらいので上着を倉の代わりに載せて乗りやすくしました。
8~:民衆の行為を見ていきましょう。人々は道に出て自分達の上着を道に敷き、木の枝を取って道に敷いた。上着を差し出して道に敷く行為は王をお迎えする行為です。
次に木の枝は杉の木ではありません。これはナツメヤシの枝。これもまた自分達を救ってくれるメシヤをお迎えする行為です。人々は熱狂的に迎えました。ホサナ、ヘブル語で「私達を救ってください」という叫び。「主の御名によって来られる方に」とは当時の人々がメシヤを迎える時に使う言葉です。詩篇118:25~27の引用であります。
11:この様にしてイエス様はエルサレムに着き、神殿に入られた後、夕方にベタニヤに出て行かれたのです。
○この箇所は良く勝利のエルサレム入城などと呼ばれていますが皆さんの感想はいかがでしょうか。イエスと周りの人々の落差を感じませんか。イエス様は勝利の入城をしていません。平和の君として、過ぎ越しの祭りの子羊が屠られる時、即ち金曜日に、神の御子イエスが神の子羊として十字架に掛かって人の身代わりとなって死ぬのです。それが目前に迫っているので、非常に緊張した中にあります。
しかし弟子達を初め、一般民衆はイエスがユダヤを救ってくれる政治的なメシヤが来たと思い込み大騒ぎしているのです。今こそメシヤ的王国、黙示録でいうところの千年王国が出来ると思ってイエスを熱狂的に迎えるのです。ここにイエスの思いと民衆の思いの大きな落差があります。そして数日後に民衆はパリサイ人やサドカイ人たちに先導されてイエスを殺せと叫んで宗教指導者の思うツボにはまっていくのです。即ちイエスを十字架につける方向に向かっていきます。
適用
○イエスの思いと自分の思いの違い
私達はキリスト者でありながらキリストの心を最優先せずに自分の思いを優先しやすいものです。時には強引に自分の思いや考えをイエスの思い、御心と思い込ませて自分中心に生きる事はありませんか。正直に言うと私もあります。しかし今日、今からその心や生き方を方向転換させていただこうではありませんか。例えば自分の言葉使い、隣人に対する態度をいつも意識してイエスの御心に沿って行かせていただこうではありませんか。そうしたら人生は確実に変わります。また自分の周りの人も変わります。それは聖霊が働くからです。
結び
○ローマ人への手紙12:1~2(新改訳2017)
日々聖霊に心を新しくさせていただこうではありませんか。そうすれば変えられます。
是非イエスの思いや考えを私たちも聖霊によって実行できるようにさせていただきましょう。その為にもイエスの人間観をもって歩ませていただきましょう。①尊敬する。人はそれぞれが、その人しか生きる事の出来ない人生を歩んでおり、この地上に於ける唯一の価値を持った存在です。それ故、人を尊敬する。②信じる。人は自分の人生の唯一の専門家として、最高の知恵を発見し、能力がある事を意識して信じるのです。③好意的に見る。人の人格、行動、言葉についてあら捜しをしないで、常に好意的に見る習慣を持ちましょう。④関心を持つ。その人自身の持つ感じ方、充実感、価値観に関心を持ちましょう。関心を持つことの反対は無関心です。無関心は愛がないという事です。⑤最高を願う。その人のかけがえのない人生、尊さを意識して人が最高に充実した人生を送れるように願いましょう。⑥裁かない。人は人を裁くのが非常に上手な生き物です。これを辞める。何故か。人は常に失敗をしやすいものだが、死ぬまで成長の過程にある。それ故いちいち目くじらを立てない。裁かない。以上6つの人間理解をもって人と関わるようにすると、そこに聖霊が働きます。明さん試してみて下さい。イエスの最後の一週間を思いながら今週も歩んでまいりましょう。