マルコの福音書(50)

2022年12月13日

2017年10月1日
聖書箇所:マルコ10:32~45
宣教題:しもべとなれ 

今日もマルコの福音書から続けて学びます。さて今日は、イエスの十字架による死が近づいている頃、エルサレムに向かう途中で弟子達に自分の死と復活について話をされたところから始まります。実はご自身の死について話すのはこれで3回目ですね。ですから弟子達のイエス様に対する思いへの理解度は相当深まったと思いきや実はそうでもありません。それでは進めていきましょう。
今日の箇所は5つの流れになっています。
32~34死と復活の予告、35~37ヤコブとヨハネの願い、38~40イエスの答え、
41腹を立てる他の弟子達 42~45イエスの教え。

○32~34死と復活の予告
十字架刑を意識しながらイエス様はエルサレムに上って行かれます。「先頭に立って」という言葉がイエスの強い思いを表しているように思います。しかし弟子の思いは違いました。驚き、恐れていたのです。何故か。エルサレムはイエスに反対する宗教指導者の中心地であります。当然死に行くようなものですから彼らは恐れたのです。しかし毅然としてイエスは間近に迫るご自身の死についてはっきりと細かく語られました。でもキチンと復活が語られているので希望で締めくくられています。
十字架の死の予告についてはマルコ福音書で3回目ですね。8:31と9:30。3回目にはさすがに理解するはずなのですが不思議な事にこれは弟子達に隠されていることでしたので全く理解できなかったのです。
○35~37ヤコブとヨハネの願い
このようなイエスの決意がみなぎっている中で何とヤコブとヨハネの兄弟がイエスのところに来て願い事をします。彼らの母親サロメも一緒に来て願い事をし出し抜きを計りました(マタイ20:20)母と子たちで頼み込みに来たのです。サロメはイエスの母マリヤの姉さんです。ですから親戚関係を利用してイエスが栄光の座に就いた時に偉い立場に着けてもらおうと思っていたのです。
日本的に言うと一人は財務大臣、もう一人は官房長官にしてくださいと頼んだのです。この話を理解するカギは(栄光の座)という意味です。彼らの頭の中にはメシヤであるイエスの苦しみの事は抜けているのです。そしていきなりイエスがメシヤ的王国で栄光の姿となって地を治める事しか頭になかったのです。ですからイエス様の話とヤコブ達の話はかみ合わないのです。ここまではいいですか。メシヤ的王国、千年王国とも言いますがこれがすぐに来ると思っていた弟子達、メシヤ的王国は、苦しみに会うメシヤの後であるというイエスの考え、ここにギャップがあったのです。
○38~40イエスの答え
38:イエスは、あなた方は分かっていないと指摘しています。読む。
38:私が飲もうとする杯を飲み、私が受けるバプテスマを受ける事が出来ますか。聖書では杯の意味は文章の流れによって意味が違ってきます。1つは喜び(詩篇23篇:わたしの杯はあふれています)。もう一つは神の怒りや裁きを表す比喩的表現です。ここまでいいですか。バプテスマを受けるとは信じて救いを受ける水のバプテスマとは違います。ただバプテスマという言葉の意味は水に浸される事ですので、悲劇に打ちひしがれるという比喩的な表現なのです。すなわち自分はこれから十字架上で神の怒りを一身に受けて苦しみながら死ぬという事を言いたいわけです。
39:彼らは出来ますと言えるはずがないのですが、出来ますと言い切りました。イエスはなるほどメシヤの苦しみは受けられないが、メシヤに従うものとしての苦しみは受けられるねと答えます。事実ヤコブは使徒達の中で最も早く殉教の死を遂げました。弟ヨハネも迫害の乗り越え90歳ぐらい生きて最期の使徒となりました。事実苦しみを乗り越えたのです。
40:しかしイエスの右と左に座るのは別に備えられた人がいると宣言します。
○41:腹を立てる他の弟子達 
これは自分達を出し抜いて偉くなろうという魂胆に腹を立てているのです。自分たちが狙っていたポジションを取られてしまうと考え怒っていたのです。しかもイエスの母との親戚関係を利用して自分たちの母親までも加わっているなどとんでもないと考えたのです。要は皆他の弟子達も同じ事を考えていたのです。この時点では彼らに全くイエスの十字架の苦しみは頭にありませんでした。これが現実の弟子達の姿でした。自分達と同じだと思って少し安心しましたか。それとも何と心の狭い人たちだろうか思ってガッカリしましたか。
○42~45イエスの教え
偉い人、当時も今も皆、人を支配し、権力をふるいたがります。
イエスの教え:真に偉い人は皆に仕える人だと言います。仕える人をディアコノスと言います。
44:あなた方の中で人の先に立ちたい人はしもべになれ、犠牲をはらって奉仕すること。
45:自分もそうである。仕えられる為でなく、仕える為にこの世界に来たのである。そして人の罪の身代わりとなって、即ち救いの為に自分の命を与えるのだと述べるのです。ここがポイントですね。

適用
○仕える者として生きよ 
仕えるものとはディアコノスと言います。これはキリスト教会の責任役員の事だけではありません。私達一人ひとりが仕えるものとして生きる事です。神に仕え、人に仕えるという事です。
○僕となれ
更に一歩進んで犠牲的奉仕。デュウロス。英語ではサーヴァントです。喜んで主に仕える様に人にも仕えるものとして生きましょう。

結び
喜んで生きよう。イエスは十字架を前にして、緊張の中にも大きな喜びがありました。主のみ心の内に生きる事は幸いです。私達も主のみ心の内に生きる事を喜びとしようでありませんか。

ヘブル12:2
信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架をしのび神のみ座の右に着座されました。