マルコの福音書(49)

2022年12月13日

2017年9月17日
聖書箇所:マルコ10:26~31
宣教題:百倍の祝福を受けよう  

今日もマルコの福音書から続けて学びます。まず今までの流れを確認してまいりましょう。いよいよイエス様の十字架の御業が近づいていきます。エルサレムに向かう途中で金持ちの青年がイエス様の前に出てひざまずき永遠の命を自分のものとする為に何をしたらよいか?と問いかけてきました。この青年とのやり取りの中で結局のところ彼の心は冨、財産、お金に支配されていたのでイエスへの信頼に心が向かられる事はありませんでした。それ故青年にはイエスに対する信仰はなかった事が分かりました。救いは受けていなかったのです。彼はイエスから、持ち物を売り払い貧しい人に施して天に宝を積みなさいと勧められると悲しみながら去っていったのです。

そしてイエスは弟子達に「金持ちが神の国に入るよりはラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」と教え示したのです。何故イエスはこの様に言ったのでしょうか?それは人間的な業によっては、救いは不可能であることを教えたのです。青年は冨や金に心が支配されていたのです。同様にイエス以外のことに心が支配されているならば救いはないのです。

この話の続きが今日の26節~31節までになりますので金持ちの青年との対話を思い浮かべながら共に学んでまいりましょう。この場面はイエスと青年の対話ではなく、一連の話を聞いていた、イエスと弟子たちのやり取りになります。

26:イエスの話に対して弟子達は驚きをもって反応します。彼らの心の中にある前提は金持ち=神の恵みを受けた人、神の祝福を受けている人という当時一般的に思われている考え方で、当時のパリサイ人たちが教えたものです。弟子達もパリサイ派の教えに影響を受けていましたので、「それでは誰が救われることが出来るのだろうか」という発言になるのです。

27:神は人間に不可能な事をなさいます。金持ちが救われるのは難しいが、神は金持ちでも貧しい人でも誰にでも救いの可能性がある事を弟子達に示されたのです。

28:そうすると口を出してきたのは誰ですか?そうです。ペテロです。28節の言葉を読む。私達は何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。ペテロたちは何を捨てたのでしょうか?舟や網を捨てました。マタイは何を捨てたか。収税所に座り、莫大な税金を通してふとうな利益を得ていました。これを捨てました。他の弟子達もそれぞれ自分にとって大切なものを沢山持っていましたが捨ててキリストの弟子になったのです。マタイ19章に平行記事がありますので参考にして読み比べてみると27でペテロはもっと詳しく話しています。具体的にペテロの頭の中にあるのは甲です。「やがて来る神の国、千年王国で何がいただけるのでしょうか」という期待がありました。この時のペテロは未だ肉の思いが強くあります。イエスに対して全部捨てて従ったのだから、これだけやったから多くの良いものを貰えるだろうという信仰の取引を持ちかけて聴いているのです。

この考え方は私達も気を付ける必要があります。これだけやったのだから多く帰って還ってくるのですよねという考えは打算的であり神と取引をする信仰ですから聖書の信仰ではありません。

29:これに対してイエスは弟子達に真実(まことに、アーメン)を述べます。読む。捨てるとは何を捨てるのか。義務を捨てたら大変です。クリスチャンは皆、世捨て人になってしまいます。キリストの香りを放つことは出来ません。福音即ち、キリストの側につく者は欲張らずに権利を捨てよと言っているのです。

30:そうすれば逆に100倍の祝福を受けます。これは文字通り100倍ではなく多くの恵みと祝福を受ける、何倍にもなって祝福はかえってくるのです。この世の中では例え迫害に合うような厳しい状況になってもキリストにある多くの神の家族を持って祝福され、後の世、千年王国時代になったら、キリストにあってこの世の富を犠牲にした人は多くの祝福を受けるとイエスは語るのです。この様に神からの賜物として永遠の命を受けます。キリスト者はこの地上の生涯の中でも永遠の命を持っていますので人生を楽しみましょう。

31:警告:しかし先の者が後になり、後の者が先になるから気を付けてねと、イエスはペテロや弟子達に警告します(28節の言葉に対して)。これはどのような意味でしょうか。先の者が後になりとは、神への信仰は取引をしてはいけないということ、即ち、信仰とはこれだけ、したのだから沢山ご褒美を下さいというものではない。又利己的な動機で信仰の歩みをしてはいけない。そして後に信仰を持った人でも主にあって自分を犠牲にして信仰の恵みの中で生きるならば先になるのです。この様にイエスは話を結んでいるのです。
適用
○神との取引はやめよう
何もかも捨ててイエス様に従ったのだから、それに見合って大きな報酬を受けられるのですよね。というのが当時のペテロの信仰でした。私達もこれだけ時間を神にささげたのだから、報いはどれだけ受けられるのですかと考ええ信仰生活は神と取引する信仰になります。このような姿勢はやがて表面的な事に目を向け、律法的になります。そして次第に喜びを失い、熱心でない人を裁きの心で見る様になります。これは聖書が示す信仰ではありません。これが先の者が後になるという信仰なのです。私達に警告しています。
ではどうするのか。人の目には関係なく、主の前に誠実に生きる信仰が尊いのです。賜物を生かし誠実に仕え、結果は主に委ねていくのが聖書の信仰であります。これこそ後の者が先になるのです。

○自分の犠牲にして生きる幸い
29節にあるように時にはキリストにある信仰故に自分の権利を犠牲にして捨てなければならない場合もあります。でもその時にも主に従って捨てて生きるなら大きな報いを受けるのです。この信仰者こそ100倍のあらゆる祝福を受ける信仰の歩みです。

結び
やがて来る千年王国はどのようなものでしょうか。楽しみです。私達もキリストと共に栄光の体に変えられてこの地上を治めるのです。そして千年王国が終わった後には全く新しい天と地が誕生しそこに移されます。それはもっとワクワクします。私達は現実の中にあっても未来に目を向け、自分に与えられている使命を発見し、また賜物を磨いて、自分らしい信仰の歩みをしてまいりましょう。そしてやがて来る千年王国、そして新天新地に目を向けて信仰によって歩んでまいりましょう。