マルコの福音書(46)

2022年12月13日

2017年8月27日
聖書箇所:マルコ9:38~50
宣教題:真の熱心さとは  

今日もマルコの福音書から続けて学びます。まず今までの流れを確認してまいりましょう。ペテロ・ヤコブ・ヨハネ達はヘルモン山で生涯忘れる事の出来ない様な大きな体験をします。それは栄光に満ちたイエス様の姿をみたこと、しかもそこにはモーセとエリヤもいてキリストが受ける苦しみのみわざについて話をしていたのです。この姿を目撃した3人はイエスこそメシヤ・キリストであることを確信し非常に信仰的に強められました。ところがふもとに下りてきて見た光景は全く別の世界と現実でした。それはヘルモン山に連れて行ってもらえなかった他の弟子達9人がパリサイ人や多くの人たちに取り囲まれ押し込まれていました。悪霊につかれ耳が聞こえず、話せない少年の癒しを出来なかったことが原因でした。弟子達はイエスによって使徒に任命されていたにもかかわらず、使徒という立場に慢心し、不信仰であったため少年を癒すことが出来なかったのです。
今日はその続きになります。まずは状況確認:イエスが十字架に掛かって死ぬ約半年前、場所はピリポ・カイザリヤから南のガリラヤ地方にある町カペナウムでの出来事です。イエスはある家に立よりくつろぎのひと時を持ちます。そこでイエスは真に偉い人は仕える人であると教えました。また、子供を抱き寄せ、価値がないかのように見える子どもを受け入れる人こそ次の世界であるメシヤ王国で一番偉いのだと教えました。今日はその続き、真の熱心さとはどういうことかを考えてみたいと思います。
38:ヨハネの報告、提案
話は家の中での続きで、真に偉い人は使える者、又価値がないかのような人をも愛する事と教えを受けた弟子達の中でヨハネが、デモと思いながらイエスに報告します。先生の名を唱えて悪霊を追いだしている人がいましたが、私たちの仲間ではないのでやめさせました。この提案な如何なものでしょうか。
悪霊を追いだすのは素晴らしい働きです。決して名前だけの信者ではなく本物の信者です。名前だけの信者であるならば、逆に悪霊に押し倒されてしまいます。ですからこの悪霊を追いだしている人は12弟子ではありませんが、本当にイエスをキリストと信じる人です。でもこの時のヨハネの態度は残念ながら排他的な意識を持っていました。自分の仲間が出来なかったので認めたくなかったのでありましょう。
ヨハネはイエスの力で悪霊を追いだしている人を見て自分達仲間ではないのでやめさせたというのは、彼らのプライドが丸つぶれになったということではないでしょうか。仲間の弟子達が出来ないのになぜ赤の他人が出来るのだという驚きと共に不安があったのでありましょう。彼らにしてみればイエス様と共にいる仲間が癒せないのに、自分たちの仲間でない人が癒しているのを見て嫉妬したかも知れません。
先に述べたようにイエスは子供を抱いてこの幼子を受け入れる人こそ真に偉い、謙遜な人であり、またそのような人こそ神に受け入れられるのだと言います。この発言に対して自分たちの仲間ではないので排他的な考えをヨハネはイエスに述べたのです。弟子達には他の人を辞めさせる権限はありません。それにもかかわらず自分達だけに霊的権威が与えられて特別だという特権意識が働いていました。ここに人が排他的、高慢になる罠があるのです。これは私達も気を付けていく必要があります。自分達こそ聖書的であり、信仰的だ。キリスト教の異端は別ですが、他の○○団体の人たちは信仰的ではないと断言することは出来ないのです。
39~:イエスの答え 簡潔に見ていきましょう。この発言に対して4つの答えをしました。もっと本質を見極めなさいというものです。
①39~41あなたは兄弟を受け入れよ
私の名においてしている事をとめるな。本物の信者だのだから。貧しさゆえにキリスト者に水一杯しか出せない人でも報いには洩れない。神はその小さな愛の行為さえも覚えている。
②42:あなたは小さいものに躓きの原因になるな
躓きとは、子供にキリストから心が離れさせるようなことはするな。例えば子供の前で相手をののしるような大げんかをしてはならないという事です。あるいは子供が車に乗っているのに平気で交通ルールを破るようなことをしてはならない。一方通行を平気で逆走する。教会の北側道路。
③43~48躓きの原因を取り除け
これは誤解しないでください。聖書は文字通り読むと言ってこれをそのまま実行したら多くの人の片手、片足はありません。イエス様は誇張法(真理を伝える為に分かりやすく例を示す方法)という手法を使って話しています。弟子としての心、決意を迫って誇張法を用いている。子供やそのほかの人に対してキリストから遠ざけるような発言や行動は慎みしてはいけないと教えました。
④49~50生きた供え物となれ
苦難や迫害の中にあっても兄弟たちとの平和を保って自分を主に捧げ、神の国の広がりに生きよ。
適用 2つ。
1、開かれた心を持とう
○プロテスタント教会は宗教改革以降500年たっていますが、多くの教派、教団に分裂してきた悲しい歴史があります。これが私達の弱点です。背景にあるのは排他意識、または分派意識です。自分たちの考えと違うから、教理に間違いがあるから、神学的ではないから、礼拝の時に楽器を使うから様々な理由で分裂してきました。本庄キリスト教会もプロテスタント教会と呼ばれる一教会ですが、分裂の歴史を歩むことなく歩んでまいりましょう。その為にもキリストの体なる教会は教派、教団に関係なく一つであり、キリストの救いを受けている人ならばだれでも尊敬して受け入れる姿勢をもって交流しようではありませんか。
○すべての人と交流する原則、キリスト信仰者であるとか、ないとか関係ない付き合い、ポイントはキリストの心をもって接する。具体的には相手を①尊敬する、②信頼する、③好意的に見る、④関心を持つ、⑤最高の人生を送れるように願う、⑥裁かない。この6つです。人間関係を壊すのはこの逆の生き方、接し方をしている場合です。そして意外と多いのです。
2、45:ゲヘナとは
ゲヘナとは地獄の事です。エルサレムの南西にあるヒンノムという谷がありました。ヘブル語のゲヒンノムと言います。ギリシャ語訳でゲヘナと言います。昔モレクという偶像の神に子どもを捧げたところであり、ヨシヤ王の時代にエルサレムの生ごみ、動物及び犯罪者の死体の焼却場があったところであります。ここはいつも火がくすぶり、煙が出ています。そして生ごみを捨てましたので多くのウジ虫が湧いていました。これがそのまま地獄を表す言葉に使われました。但し本物のゲヘナにはうじ虫はいません。これは永遠の火による苦しみをウジと見なして象徴的に書いています。ここに入ったら出られません。セカンドチャンスはないのです。ここがゲヘナ、地獄です。
結論
 私たちの真の熱心さとは排他的な生き方ではありません。聖書全体の中から聖書の言わんとする事、原則をよく学んで理解して信仰に生きる事であり、恵みにより信仰によって救いに預かり、主の恵みの中で生きるという事です。そしてこの地上において神の国の広がりと一人でも多くの人がキリストの救いにあずかる事を願いつつ開かれた心をもって生きるならば排他的な意識を乗り越えて生きる事です。そうすればもっとキリストの栄光を現わす事が出来るのではないでしょうか。これこそキリスト者の真の熱心な生き方であると思うのですが如何でしょうか。アーメンですか。