マルコの福音書(45)

2022年12月13日

2017年8月20日
聖書箇所:マルコ9:33~37
宣教題:誰が一番偉いか  

今日もマルコの福音書から続けて学びます。まず前後関係から見ていきましょう。ヘルモン山でペテロ・ヤコブ・ヨハネ達は生涯忘れる事の出来ない大きな経験をしました。それは栄光に満ちたイエス様の姿を目の当たりにした事です。しかもそこには甦ったモーセとエリヤもいてキリストが受ける苦しみのみわざについて話をしていたのです。この姿を目撃した3人はイエスこそキリスト・メシヤであることを確信し非常に信仰的に強められました。ところがふもとに下りてきて彼らが目にしたものはあの栄光の体験とはあまりにもかけ離れた姿でした。それは山に連れて行ってもらえなかった弟子達9人がパリサイ人や多くの人たちに取り囲まれ何やら話し合っている様子です。悪霊につかれて耳が聞こえず、話せない少年の癒しを出来なかったことが原因でした。彼らはイエスから使徒に任命されているにもかかわらず、使徒という立場に慢心したため少年を癒す力を受けられなかったのです。そしてイエスは再びご自分の死を再予告したのです。それでは今日はその続きになります。場面状況:十字架の死の約半年前、場所はピリポ・カイザリヤから更に南に来てガリラヤ地方のカペナウムという町での出来事です。

33:カペナウムに着いた。イエスは数か月の旅をして交通の要衝の地であるカペナウムという町に戻って来たと時の話です。家に入ったとは誰の家か。カペナウム出身の弟子にはペテロがいます。そしてマタイ福音書17章、18章の流れで見ると多分ペテロの家ではないかと思われます。イエス様が良く訪ねくつろげる家だったと思います。ここでイエスは弟子達に質問をします。一方的に自分の話をせず、質問を投げかけるという方法はイエスが良く使ったやり方で非常に優れています。何故良いか。質問された人は自分で考え自分の言葉で話をまとめて発言するからです、本人の理解が進みます。質問の中身は、道々で何を論じ合っていたのですか?イエス様にも彼らの話しているのが聞こえたのです。
34: 彼らは黙っていた。あれだけおしゃべりの弟子達ですから普通黙っている事はありません。当然イエスは彼らの会話の中身を知っていました。彼らは、恥ずかしかったのです。自分たちの考えていることが見抜かれていたので穴があったら入りたいくらいだったのでありましょう。
話の中身は弟子の中で誰が一番偉いか。マタイ18:1を見ると「天の御国では、だれが一番偉いか」と書かれています。もっと分かりやすくいうと、天の御国とは将来私達が行くいわゆる天国という場所ではありません。彼らが話しているのは将来到来するこの地上のメシヤ的王国、別名千年王国の事で、この時になったら誰が一番偉いかと序列の順位を議論していたのです。

現代の私達から見たらあまり価値のない話をしているなと思うかもしれませんが、彼らにとっては実に大きなテーマでした。日本でも江戸時代後期までは士農工商の身分制度がガッチリ出来上がっていましたので、農家に生まれたら農家の人間として一生生きるのです。どんなに優秀でも小作農の子供として生まれたら地主にはなれませんでした。
イエス時代のユダヤにおいても生まれた時の立場はそのまま続きます。経済的に成功しても序列を変える事は難しかったようです。それ故、彼らには序列というのは非常に大きな関心があり、やがて来るメシヤ的王国の時代には偉くなれる様に切に望んでいたのです。これが、誰が一番偉いかという議論の背景でした。弟子達がいかに偉くなりたかったかがその心が伝わってきる様です。

35:イエスの答えが出てきます。イエスは人の先に立ことを否定していません。人に仕えた結果、周りの人から評価されて人の上に立つリーダーに立てられる事は良いことです。メシヤ的王国で高い地位に就きたいのであれば皆に仕える人となりなさい。これがイエスの答えでした。いわゆるサーバント・リーダーシップという考え方です。
36~37:子供を連れてきた。ここがペテロの家だとするとこの子どもはペテロの子供である可能性があります。そして子供を腕に抱き寄せ、謙遜になって仕える実例を示されたのです。マタイ18章ではこの子供のように自分を低くする人が一番偉いのだと語られました。
マルコ福音書ではこのような幼子たちの一人を私の名のゆえに受け入れる人が一番偉いと弟子たちの質問に答えています。何故、幼子を受け入れる人が偉いのでしょうか。今の時代、子は宝であると言われています。現代のような少子高齢社会の日本では特にそうですね。とにかく子供が増えないとあらゆる面で日本という国が成り立たなくなってしまいます。
しかしイエス時代のユダヤでは子供に対する考え方は違います。子供の存在価値は非常に低いもので、価値がないものと見なされていたのです。それ故、最大の弱者である子供に対して世の中の人々は関心が向ける事がなかったのです。キリストの弟子達さえそうでした。しかしイエスはその最大の弱者にこそ目を留め大切にしたのです。ここがこの世の価値観とイエスの価値観の違いです。あなたはどちらの価値観ですか。
37:自分達に適用するとキリスト教会はこの世の中で価値がないと思われる人こそ大切にしなければならないという結論になるのです。故にキリストの心をもって弱者の側に立つのです。例:25年くらい前にある教会の牧師との話の中で、その方は自分が伝道する範囲は中の上以上の人であると言っているのを直接聞いた事があります。私は耳を疑いました。中であろうが、上であろうが、下であろうが伝道の対象は神が送って下さった人なのだという信仰が必要です。
適用
○神の家族に序列はなし
教会では働きによって牧師や伝道者、執事という違いはありますが上下関係はありません。但し上下関係がないからといって礼儀や敬語が必要ないかというと言うとそうではありません。互いが相手を尊敬しつつ接する事が神の家族共同体の在り方です。
○発想の転換をしよう
真のリーダーは威張って人を使うのではなく、真に人に仕える人です。イエスはまさしく仕えられる立場の人でありましたが、この地上では人に仕えるものとなりました。そして最後には人の罪の身代わりとなり、十字架に掛かって死なれ、墓に葬られ、よみに下り、三日目によみがえり、今も生きています。やがて王としてこの世界を治める為に再び戻って来ます。再臨すると言います。

結び
子供を受け入れる人となろう。当時の子どもに対する考え方は、子供に価値はないという評価でした。しかしイエスはその価値がないかのように見える人を受け入れたのです。様々な人間関係でも自分が得すると思えるような人とばかり付き合うのではなく、この人の為に何かをしても全く見返りがないと思われるような人と関わりを持つのです。その為には自分はひとかどの人間であるというプライドを捨てる必要があります。今イエスが求められているのはこのようなキリスト者です。マタイ25:40イエスは言います。これらの私の兄弟たち、しかも最も小さいものにしたのは私にしたのです。お祈りいたしましょう。