マルコの福音書(44)

2022年12月13日

2017年8月13日
聖書箇所:マルコ9:30~32
宣教題:二度目の受難告知  

今日はマルコの福音書から学んでまいりましょう。今日の箇所を学ぶにあたって流れを振り返ってみましょう。少し前にペテロ・ヤコブ・ヨハネ達にとって生涯忘れる事の出来ない大きな事件がありました。何でしたでしょうか。そうです。ヘルモン山で栄光に満ちたイエス様の姿を目の当たりにしたからです。しかもそこには栄光の姿で甦ったモーセとエリヤもいてキリストが受ける苦しみのみわざについて話をしていたのです。この姿を目撃した3人はイエスこそ栄光のキリスト・メシヤであることを確信しました。そして気持ちも高ぶっていた事と思います。霊的・信仰的に非常に高められました。
ところがヘルモン山からおりてふもとに戻ると、残りの弟子達9人の周りに大勢の人が集まり、律法学者たちと何やら論じ合っていたのです。話の内容は良くわかりませんが、9人の弟子達が悪霊につかれて病の中にあった子供の癒しが出来なかったのが原因の様でした。そこでイエスのもとに連れてこられた少年はたちどころに癒されましたが、一方の弟子達にとっては自分達の信仰の在り方を見直す良い機会となりました。これが今までの流れでした。

30:さて、一行はそこを去ってとは、イエス様と弟子がヘルモン山から山を下りてピリポカイザリヤを経て今ガリラヤ地方のカペナウムに向かっている所という意味です。再び多くの人の前に現れたイエス様はどうしても人々から称賛され目立ってしまいます。一方「イエスにくし」の思いに凝り固まっている律法学者、パリサイ人たちは直ぐにでもイエスを捕え亡き者にしたいと考えていました。イエスご自身はこの世界に死ぬ為に生まれて来たのですが、ガリラヤで死ぬわけにはいきません。どうしてか?今はまだ秋の仮庵の祭りの頃ですので翌年春の過ぎ越しの祭りまで少なくても半年も時間があります。イエスは過ぎ越しの「いけにえ神の子羊」として十字架上で肉体が裂かれ血を流して死ななければご自身の目的である人類救済を達成しないことを良く知っていました。それ故今はまだ人に知られたくないと思われたのです。

31:さらに詳しい理由を述べています。まず「人の子」とはイエスご自身が自分の事を指して使う言葉です。更に過ぎ越しの祭りの時に「犠牲のいけにえ」として十字架に掛かって死ぬことを詳しく述べています。しかし最後まで読むと本当は希望がある事を述べています。三日の後に人の子はよみがえるというのです。イエス様が来られた目的は実にこの為でした。マルコ8:31ピリポカイザリヤで最初にこの事を話されましたので実にイエスの受難告知の話は2回目です。

32:ところがこの話をしても、しかも2回目の話なのですが、弟子たちはイエスの話された言葉の意味を理解することが出来ませんでした。ここまでイエスが話してもわからなかったのです。弟子たちは頭の回転が鈍い人たちだから分からなかったのでしょうか。そうではありません。十字架以降に生きる時代ならば良くわかるのですが、この当時、今から2千年前にはほとんどの人が苦しみを受けるメシヤ・キリストの姿はほとんど想像すらしていませんでした。何故かというと彼らが旧約聖書から教えられていたメシヤ・キリスト・救い主の姿は栄光に満ちた力ある方というイメージ先行だったからです。故に癒しを成し、力ある奇跡を行い、自然界を支配するような様々なみわざをするイエスを見て人々はこれぞまさしく待ち望んだメシヤと思って歓迎したのです。そしてやがてローマを倒してユダヤを再興してくれると期待し夢見ていたのです。それしか頭にないので弱くて十字架に掛かって惨たらしい死を遂げるというメシヤの姿などは想像もしたくないのです。これが当時の人々が一般的にメシヤ像です。

しかし詩篇22篇やイザヤ書53章には苦しみに会うメシヤの姿が細かく、しっかり示されています。このように聖書では本来、苦しみを受けるメシヤと栄光のメシヤの2つがあります。別の言い方をすると初臨のキリスト(受難のメシヤ)と再臨のキリスト(栄光の姿)の違いですね。ここは大切なので皆さんもしっかり押さえてください。この初臨のキリストは今から2千年前に来ました。そして再臨のキリストはまだ来ていません。でも当時の人々は初臨のキリストと再臨の栄光のキリストを区別して考えていませんでした。それゆえ栄光のメシヤの姿しか頭にありませんでした。当然弟子達も同じ受け止め方でした。それは神が彼らに真理を隠していたという側面もあるのです。不思議な事ですね。イエスのみことばが理解できなかった背景はここにあります。

もう一つイエスに尋ねるのを恐れたという事ですが、特に3人の弟子の心の内にあったと思います。イエスが苦しんで死んでいく事を話されましたが、それはヘルモン山でイエスの姿が変わり、モーセとエリヤが話していた内容でした。同行した3人はこの意味を理解し始めてきました。でも栄光のイエス様の姿しか受け止めたくないので話を切り出し尋ねるのを恐れていたのです。メシヤ的王国(千年王国)で自分が一番偉くなりたいと思っていたので、その考えが崩れることを恐れたのではと思われます。イエスが死ぬとすべて自分の計画が崩れると考えたのではないでしょうか。短い箇所でしたが今日の話はここまでになります。

適用
私達は理解できない事に対してどう考えるのか?
今聖書を読むと初臨のキリストの姿もあれば再臨のキリストの姿もある事を明確に理解することが出来ます。しかし旧約聖書時代やイエス様の時代に生きた人々にはそれが明確に分からなかったのです。旧約聖書の中に書かれていましたが、そこまでの理解には至らなかったのです。弟子達もそうでした。これがはっきり理解できたのはイエスの十字架の死と復活の後、聖霊が下って教会時代になってからです。同じように今の時代にも理解できない、わからない事は聖書だけではなく沢山あります。それが人生ともいえるのです。例えば:自分の死の時期、いつ主のみもとに行くのか?将来何が起こるか分かりません。でもだからそれで良いのです。今を楽しみ、今をしっかり生きるのです。よく考えてみると弟子達もそうでした。すべてわかっていたら早速皆が主のもとから逃げだしていた事でしょう。徐々に徐々に物事を理解しながら成長していったのが弟子達です。私達も同じように少しずつ信仰理解や人とは何かの理解を深めイエス様に仕えてまいりましょう。

結び
聖書を読んでいてわからない所は沢山あります。そのわからない所を知っていく為にはどうしたらよいのでしょうか。基本的には聖書を比喩的に、たとえで読むのではなく字義通りそのまま読むことです。勿論たとえの部分はたとえで読む必要がありますが、基本は比喩的霊的に読み込まず、そのまま読んで解釈することが重要です。特に聖書はユダヤ人によって書かれましたので彼らの考え方、文化、生活習慣、文章の書き方、文脈、前後関係、著者の言いたいことを考える視点に立って読んでいくと少しずつ聖書理解が増してきます。もう一度聖書全体を通読しながら理解を深めてまいりましょう。同時に小グループで聖書通読会を行い質問を出し合って学んでいきましょう。