マルコの福音書(43)

2022年12月13日

2017年8月6日
聖書箇所:マルコ9:14~29
宣教題:山麓からふもとへ  

今日は前回の続きになります。思い出してみましょう。イエス様はガリラヤ湖のはるか北にあるヘルモン山で栄光の本来の姿に変り、その場にモーセとエリヤが現れ、やがてイエスの身に起こる苦しみのみわざについて話していました。即ち十字架の話です。この場所には3人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがついて行きましたが彼らもイエスの栄光の姿を見て大いに興奮します。
そこでペテロは思わず口走ってしまいます。「イエス様、モーセ、エリヤの3人の為に仮小屋を3つ作ります」というものでした。それはちょうどこの頃、仮庵の祭りという秋の祭りが行われる季節であるからです。今の暦でいうと、9月~10月にかけての時期です。この祭りの意味はこの年の収穫の終わりを告げるもので、昔イスラエル人たちがモーセに連れられ出エジプトしたときに因んで仮小屋を作り主の恵みを覚えるものでありました。それを思いつつペテロは即座に告白したのです。実にペテロは信仰的な人でした。もう一つの意味は未来の千年王国の時に全世界から人々が集り、仮庵の祭りをお祝いします。そこでメシヤを礼拝するのです。この時の意味も込めてペテロは仮小屋を作りますと思わず叫んでしまったのです。そのような訳でペテロは意味も分からず語ったのではない事をご理解下さい。その後4人は山から下りながら終末時代に起こる事をイエス様から教えられます。

今日の話はその続きです。ふもとで何が起こったかという事になります。山から下りてきたらいきなり現実の出来事が待っていました。これは良くある事です。例えば、キャンプや聖会に行って大きな主の恵みを受けて、信仰的、霊的に高められた後、家に帰ってきたら、親が大げんかをしていてその仲裁をしなければならなくなった。また礼拝で恵まれた後、家に帰ったら夫と大喧嘩をしたとか、様々な現実があるのはこの世の常であります。このような落差を経験したことはありませんか。今日の話は山麓からふもとへという事ですが、実にそのことを言いたくてこの題をつけました。大きな流れは4つです。14~16現実の問題、17~24父親との対話、25~27悪霊追い出し、28~29弟子たちの質問とイエスの答え。

①14~16現実の問題
さて、と書かれていますので、場面ががらりと変わります。イエス様と3人の弟子がふもとで待っている9人の弟子達のところに戻ってきました。3人の弟子達はイエスの栄光の姿(変貌)を見て体験して、興奮しているのです。まだ興奮冷めやらぬというところでしょうか。それが9人のところに戻ってくると雰囲気ががらりと変わるのです。ざわついているのです。弟子達と律法学者たちが何か激しい勢いでやりあっているのです。どちらかというと9人の弟子達は押され気味ですね。周りには大勢の人々がいるのです。それがこの場面です。

②17~24父親との対話
このような状況の中にイエス様たちが戻ってきました。人々は走り寄り、その中の一人の父親がイエスに話します。口をきけなくされ、耳が聞こえないようにする悪霊につかれた息子を持つ父親がイエスのところに子供を連れてきます。悪霊が子供を押し倒し、子供を苦しめているので、弟子達に霊を追いだして下さいと頼んだのですが出来ないというのです。弟子達は面目丸つぶれですね。
これに対してイエスは、「ああ不信仰な世代」だと言って嘆かれました。そして子供を連れてこさせ父親と会話が始まります。21~22の会話です。「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました」このようにして悪霊は人を滅ぼそうとして様々な悪を働きます。
次の父親の言葉がポイントです。「もしおできになるのなら、私達を憐れんでお助けください」イエスは言います。「もし出来るものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです」そして父親の信仰を確認してからみわざを行うのです。

③25~27悪霊追い出し
父親はイエスに非礼を詫び、信仰をもってイエスを受けいれました。汚れた霊を叱りつけ、二度とこの子に入るなと命じると、悪霊は叫び声をあげてその子から出て行きました。子供は死んだようになりましたが、イエスに起こされて立ちあがりました。

④28~29弟子たちの質問と答え。
そこに面目丸つぶれの弟子達がそっとイエスに尋ねます。「そっと」というのがいいですね。「どうして私達には追いだせなかったのですか」彼らは使徒に任じられイエスの代理人として権威を受けたのにできなかったから恥ずかしいのです。マルコ6:7。12~13。彼らは自分に与えられた権威を変わることなく持てると誤解していました。また過去の経験を頼りにして神に信頼して祈る事を忘れていたのです。イエスの答え。この種のもの。悪霊追い出しは祈りが大切である。すなわち主への信頼が何よりも大切なのだとイエスは教えました。

適用
○弟子の失敗から学ぶ
弟子達は使徒として立てられ特別の権威をイエスから受けたはずです。悪霊追い出しや癒しの業も出来るはずでした。でも彼らは自分の経験により頼み、いつの間にか自分の力でやろうとするようになりました。そうするといくら使徒であっても主への信頼の心が無ければ力を発揮することは出来ないのです。主に信頼して祈って行動する視点が欠けていました。私達も同じです。名前ばかりクリスチャンと言っても救いは変わりませんが、主イエスへの信頼が無ければ聖霊の力を受けて歩むことは出来ません。今日弟子たちの失敗から学んで主の恵みをいつも覚えて受け止めつつ、信仰によって歩んでまいりましょう。

○信仰的な世界からこの世の現実に戻る
礼拝を捧げ心がリセットされさわやかな気分で家に帰ると現実の生活に戻ります。仕事、人間関係、経済的な事、次から次へと課題があるのが私達の普通の生活です。その時どうしますか。この世の現実は駄目だから逃げ出したいと思うのではなく、このところでイエスの使命を受け、役割を果たしていくのだという信仰に切り替えて歩んでまいりましょう。

結び
霊的に満たされた山頂から現実の世界に戻る事はよくある事です。そのような時にはどうすればよいのでしょうか。それはいつも信仰の基本に立ち返る事、主の恵みに信頼して生きる事です。
それは祈りとなって現れます。祈りとは信仰、信頼することでもある。ただ何も長い時間祈ればよいというものではありません。毎日ストップウォッチをもって「はい1時間」と計って祈る訳ではありません。主の恵みに信頼して祈る事。これは信仰生活のポイントです。お祈りしましょう。