マルコの福音書(41)

2022年12月13日

2017年7月16日
聖書箇所:マルコ8:31~38
宣教題:わたしはキリストの弟子です  

それではマルコの福音書から続けて学んでまいりましょう。先週からイエスと弟子たちはガリラヤ湖の北にあるピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた箇所から学び続けています。この場所は水と緑豊かなよい場所であり又切り立つ岩山がある場所であります。この町は偶像の自然神パンが祭られている所としても有名でありました。ここでシモン・ペテロはイエスに対して素晴らしい信仰告白をしました。イエスが弟子達に質問します。あなたがたは私を誰だと言いますか。ペテロは言います。「あなたこそキリストです」旧約聖書に約束された唯一の神ザ・メシヤです。この信仰告白をイエス様は大変喜ばれました。

さて今日の場面は同じ話の流れになります。4つに分けられますので分かりやすい箇所です。
①イエス受難の予告31~32②ペテロの反応32③イエスの叱責33④弟子の道34

①イエス受難の予告
31:それからとはペテロの信仰告白のあとにイエスがご自分の事を話されたという内容になります。イエス自身に起こるこれから後の地上における結末の話です。このピリポ・カイザリヤにおける出来事は季節でいうと秋。9月から10月です。翌年の春、6ケ月後には十字架刑が待っている状況です。故にイエス様はペテロの信仰告白をうけてご自分の半年後における十字架刑の予告をしました。人の子とはイエス様がご自分の事を呼ばれたメシヤを表す言い方です。ですからここではイエスご自身の事を言われたのです。具体的には過ぎ越しの祭りの時に神の子羊として人々の罪の身代わりとして十字架に掛かって死んで葬られ、三日目によみがえられる事を弟子達に教え始めました。32:はっきりと話されました。

②ペテロの反応
32:イエスをわきにお連れしていさめ始めた言葉の中身は、マタイ16:22によると、主よ神のみ恵みがあなたにあります様に。そんなことがあなたに起こるはずがありません。数分前まではイエスに対して明確に理解し「あなたこそメシヤです」とはっきりした信仰告白したにもかかわらず、イエスの思いとは程遠い発言となりました。何故か。ペテロの頭の中にあるメシヤとは政治的なメシヤ像であり、やがてローマから解放してくれるという強いメシヤの姿だったのです。ですからペテロにとってのメシヤはいつも力に満ちて強い存在なのです。彼の頭の中では十字架に掛かるはずは「これっぽっち」もないのです。ペテロは十字架抜きで神の国が来ると考えたのです。故に人々から苦しめられ、捨てられ、殺され死んでいくイエスの告白は到底受け入れられないのです。またこれが当時の一般的なユダヤ人のメシヤに対する考え方です。

※でも彼は大きな間違いを犯しています。正確がそそっかしいので三日の後によみがえるという言葉を聞き落としているのです。最初だけ聞いて最後の大切な部分を聞き逃しているのです。この様に何ともそそっかしいのですが、話を最後まで聞かないのは私達も良くある事ですね。
※また弟子は通常師匠に対して批判はしませんでした。これも当時の習慣に反しています。

③イエスの叱責33
ペテロの反応は当時の人々の常識では当たり前のことでありますが、神の救いの計画から見ると全く御心からかけ離れています。故にイエスはペテロに「下がれ、サタン」と言ったのです。これはペテロがサタンだという意味ではなく、彼の考えがサタンの計画の中に入るようなものだという意味でサタンと叱責したのです。主なる神の御計画は人の救いの為には、また神の御国の為にはメシヤは人の罪が赦されて、救いを受けて生きる必要がありました。それが「神のこと」です。でもペテロは人間的な考えでメシヤを見ていたのです。ペテロもショックだったと思いますが、イエスは彼の内に働くサタンの計画を見抜いて叱りつけたのです。

④弟子の道34
○キリストの弟子となる者は十字架を負って私についてきなさい。この意味するところは
イエスが味わった人々から拒否されるという体験を自分の物にする事。イエスをメシヤと告白すれば人々から拒否されるという事を受け入れて生きよという勧めです。
○自分を救おうとしてそれを避けるならその人はまことの命を失います。逆にキリストに従う道を選ぶならまことの命を受けて生きます。
この地上ではキリスト信仰者の生き方は人々に中々理解されません。でもそれはどうでもよいのです。キリストに従い十字架を負って生きるのは永遠の世界の準備です。

適用
○救いを受けてキリストの弟子になるには
聖書信仰の基本→人は恵みにより信仰によって救われる
では何を信じるか
福音を信じる 福音とはⅠコリント15:1~5。この福音を信じてキリストの救いを受け、弟子になる事が出来ます。
○では弟子はどう生きるか
自発的 自由意志
罪と自己中心の生活をその都度捨てる
全てにおいてキリストに従順する
キリストを見上げて生きる
適用
イエスこそメシヤ・キリストです。そしてメシヤは十字架の苦しみを経て私たちの救いを達成しました。そしてやがて、世の終わりに、この世を完成するために、今度は強いメシヤとしてこの世界に戻ってきます。これをキリストの再臨と言います。そして千年王国が始まります。38節です。この時私達も一緒に戻ってきます。この希望を忘れてはなりません。その為にもキリストの弟子であると告白して生きようではありませんか。そしてキリストの弟子として神を愛し、人を愛し、人に仕え愛の人とされようではありませんか。人々はあなたを通してキリストを見ているのです。
私達の生き方をもう一度確認します。
①自発的に自由意志をもって信仰に生きる
②罪と自己中心の生活をその都度捨てる
③全てにおいてキリストに従順する
④キリストを見上げて生きる
この明るく元気でのびのびとした生き方こそキリストの弟子の生き方です。お祈りしましょう。