マルコの福音書(38)

2022年12月13日

2017年6月25日
聖書箇所:マルコ8:1~10
宣教題:4千人の給食のみわざ  

先々週はイエスがスロ・フェニキヤの女の信仰に応えて娘の癒し、先週はデカポリス地方で耳が聞こえず、舌の回らない人の癒しから学んでいきました。いずれも異邦人の地で主の御業があらわされました。今日も続けてデカポリスで起きた出来事です。それは何か見てまいりましょう。まず先週お渡しした地図キリストの後期伝道をご覧ください。今イエス様がいる場所は中央のガリラヤ湖南にあるデカポリス(十の町)地方というところです。ここはユダヤ人以外の人が多く住む異邦人の地であります。このガリラヤ湖近くで4千人以上の人への給食のみわざがなされました。思い出してください。以前もガリラヤ湖北側の町で同じような奇跡のみわざがありました。何でしょうか。そうです。5つのパンと2匹の魚から5千人の給食です。それぞれ思い出しながら学んでいきましょう。

1、どの様な状況だったか 1~3
イエスの周りには大勢の人の群れが集まっていた。なぜこんなに人が集まってくるのか。耳が聞こえず、舌が回らない人への癒しが直前に起きました。もう一つ、良い証をした人がいました。誰でしょうか。そうです。多くの悪霊レギオンを宿していた人がイエス様から悪霊を追いだしてもらい癒されました。彼は癒された後にイエス様にお供したいと願い出ますが、主はお許しにならず家族の所に帰り、主がどんなに大きなことをしてくださったか証をしなさいと命じられました。彼はイエス様の言葉に従いデカポリス地方で証したのです(マルコ5:1~20)この事も背景にあってデカポリス地方に人が多く集まったと思います。ここで主は3日聖会をしたのですところが食べ物がなくなり主は弟子達を呼び寄せて言います。

かわいそうに思う:この発言は単なる同情心ではありません。私達はマスコミの情報によって沢山の不幸な出来事を映像で伝えられ、不幸な事に慣れてしまい、中々行動を起こそうという気持ちになれない時が多くあります。しかしイエスの「かわいそうに」という言葉は「私のはらわたが痛んでいる」という意味でこれから行動を起こす事が前提です。それは人々が3日もイエスと共にいるが食べ物が何も残っていないという状態だからです。私達ならどうか。彼らは神の言葉を聞いて心は満たされましたが体は動けないのです。「空腹のまま帰らせたら途中で動けなくなるでしょう。遠くから来ている人もいるでしょう」このイエス様の発言に対して弟子たちの答えが次の所です。

2、弟子訓練 4~5
弟子の答え:辺ぴなところ、寂しい、人里離れた不便なところではパン屋さんもないでしょう。どうして調達できますかと、イエス様に出来ないと答えているのです。私達は数ヶ月前5千人の給食の奇跡を思い浮かべイエス様が御業を成してくださると確信できるしょう。しかしイエスの問いかけに対して弟子たちは現実しか見ていないのです。できない理由を並べるだけなのです。でも実は私たちも弟子たちを駄目な人達だと言えないのです。同じような失敗をいつもしているのです。
5:イエスは弟子たちに尋ねます。「パンはどれくらいありますか。」7つです。前は5つでしたから今度は2個多いのです。この時点で弟子たちは以前の奇跡を思い出したかもしれません。

3、主イエスの御業 6~7
イエス様は人々に食事の体制としてからだを横たえる様に言います。7つのパンを手に取り、主に感謝を捧げパンを裂き、弟子たちに人々に配るよう命じ次から次へと渡していきました。それを弟子たちが群衆に配ります。小魚も少しあったので同様にして増やし人々に配るよう弟子たちに渡しました。この奇跡はそのまま読む以外に方法はありません。主イエスは祝福して本物のパンを増やし人々に分け与えました。私達がその場面を見たら仰天するような光景が広がっていたのです。

4、奇跡の結果 8~10
彼らは感激で心が持たされただけではありません。本物のパンを食べて肉体的に満腹したのです。この聖書箇所はそのまま読む必要があります。民衆はイエスのみわざによってパンをお腹いっぱい食べて動ける様になったのです。そしてパン切れは7つのかごに集められました。このかごは前回の5千人の給食の時に集められたかごと違って「人が入れるほど」の大きなかごであります。人々は男だけで4千人でありました。この後イエス様はガリラヤ湖を西に向かってガリラヤのダルマヌタ、マグダラの町であると思われます。それからいよいよイエスはヘルモン山まで行かれるのです。

適用 今日の箇所から自分に対するメッセージは何でしょうか。
○過去の出来事から学ぼう
弟子達に対してイエスは以前5千人の給食を通して神としてのみわざを示されました。ですから4千人の時に弟子たちは前に成されたイエスのみわざを思い起こすことが可能でした。しかし彼らは前と同じ事を言っています。即ち過去の出来事から学んでいないのです。イエスから提案された時に主のみわざを思い起こす事をしませんでした。目の前の現実しか見えなかったのです。

実は私達も同じような存在です。先週水曜日にミャンマー(昔のビルマ)医療宣教師として奉仕している荒川泰子先生が本庄教会に来てくださいました。実はマミャンマーに対して日本は72年前までは武力をもって支配していたのです。多くの日本人はこの事実を忘れているというか、そのような歴史的事件があったことさえ知りません。有名なインパール作戦の失敗によって15万人以上の日本兵は殺害され、日本兵も多くの諸外国の方々を殺害しました。この悲しい無謀な歴史を忘れてはならないのです。信仰的に言うと私たちは主の恵みを忘れてはならないのです。

○主のみわざは主の弟子を通して進められる。
ここでも主の奇跡のみわざを進めるのは弟子達でした。何故なら弟子たちの手を通して人々に命のパンが配られたのです。そして今キリストの弟子である私達を通して主の恵みのみわざはつながっていくのです。ここではまさしくフードバンクの働きが成されていったのです。私達も様々な主の御業があらわされる働きに積極的に参加していこうではありませんか。

結び
イエスの配るパンは取っても、取っても主のもとから尽きないように、私達に対する主の恵みは尽きません。自分の力に頼って働きを進めようとするとすぐに燃え尽きてしまいます。しかし神の恵みを受け感謝すると私たちの生き方は変わっていきます。そして持続した働きが出来るのです。主に感謝し聖霊に満たされ、導かれ、励まされ、神と隣人に仕えるなら尽きない主の恵みがあふれ出て、燃え尽きる事なくますます主の力が湧いてきて私たちの考え方、生き方が変わり、主の業を進める事が出来るのです。そしてこの地上においてキリストによる神の国を広まるのです。主はあなたが主の働きの業に参加するのを期待しているのです。お祈りいたしましょう。