マルコの福音書(37)

2022年12月13日

2017年6月18日
聖書箇所:マルコ7:31~37
宣教題:へりくだられたイエス  

先週の学びは悪霊につかれて病気になっているギリシャ人の娘の癒しについてでした。母親のイエスに対する信仰、切り返しのすばらしさを学びました。イエスの問いかけに対して、イエス様の話はごもっとも、しかし、食卓の下の子犬でも子供たちのパンくずはいただきます。この様に自分が異邦人だという立場を理解してイエス様に信仰によって答えました。その答えに対してイエス様はそうまでいうのかと彼女の信仰に応えました。実にその場で娘を癒したのです。今日の話はその続きです。イエス様一行は南西に旅してデカポリス地方まで行きました。ここで何が起こったか見てまいりましょう。

1、31:場所の確認
地図を見て移動を確認しましょう。フェニキヤでの働きを終えて、今度はデカポリス地方に向かって旅行しました。ここで大きな2つの出来事があります。地図を見てください。真ん中あたりにガリラヤ湖がありますね。フェニキヤ:女の信仰に応えて子供の癒しが即座に行なわれた場所。そこからガリラヤ湖の東を通ってデカポリス地方、ガリラヤ湖の南側、ここにイエス様たちは移動しました。50キロメートル以上でしょうか。このデカポリスとは10の町という意味で主に異邦人が住んでいました。ユダヤ人も一部住んでいたようであります。この町は以前何があったか思い出してみましょう。そうです。以前イエス様が立ち寄った地域です。悪霊レギオンを宿していた人物がイエスによって癒された場所です。マルコ福音書5章20節にあります。

2、イエスの関わり 32~35
32:デカポリス地方で多くの悪霊レギオンを宿していた人が癒された事件がありましたのでイエス様の噂は十分に知れ渡っていました。それでイエス様が来たと言う知らせが入り、人々はすぐに耳が聞こえず、口がきけない人を連れてきて、手を置いて癒してくださいとお願いしました。でもイエス様はこの時期になると、はい分かりましたと言って、一般大衆、誰でも直に癒しをする事はしませんでした。ご自身を信頼するものだけを癒す方向へと変っていました。ですから人々の願いに直に応えませんでした。
33~35:個人的な関わりをします。しかも丁寧に耳が聞こえず、口がきけない人と関わりました。口のきけないとは、舌の回らない人という意味です。耳が聞こえないので上手に話が出来ない人です。このような立場の人とどのようにコミュケーションをとったのでしょうか。小幡さん如何ですか。そうです。今の時代は手話が確立されていますがイエス様の時代はそうではなかったと思います。でもイエス様は身振り、手振り、目で合図してこの方と会話をしたのです。一連の流れを見てまいりましょう。
①1対1の関係 連れ出し しっかり人と関わる姿勢がある。
②両耳に指を差し入れる。コミュケーションはボディランゲージ、ジェスチヤー、目で合図する。
これから耳を開かせる。聞こえるようにするから安心してね。
③つばきをしてその人の舌をさわる。つばは癒しの印があったと思われていたようです。私達の年代の人はそのように普通にしました。今はしないでしょうか。癒しは必ず起こるというイエスのメッセージがありました。
④天を見上げる。癒しは天からの恵みの御業です。
⑤深く嘆息して。がっかりした思い。怒り。創世記1章の世界を見ると、創造の御業の最初は甚だよかった。しかし人の罪ゆえ悪くなったことへのガッカリ感。しかし希望がある嘆息であった。
最後にこの人に信仰がある事を確認してから癒しの御業を行います。
⑥エパタ。開け。アラム語。おまじないの様に訳の分からない言葉を繰り返したのではなく、イエス様はきちんと人に伝わる意味ある言葉を話しました。すると即座に耳が開かれ、舌のもつれが直ってはっきりと話せるようになりました。これがメシヤとしてのイエスの癒しであります。イエスの癒しは時間がかからず直に、たちどころに癒されるのです。

3、人々の反応 36~37
37節でマルコはイザヤのメシヤ預言が成就した事を記録しています。イザヤ35:6「口のきけない者の舌は喜び歌う」しかしイエス様は人々が自分を政治的メシヤと受け止められる事を非常に嫌っていました。あくまでもメシヤの使命は過ぎ越しの祭りの時にエルサレムで呪いの木、十字架に掛かって死ぬ必要があったのです。それ故まだ受難のメシヤとして死ぬ時期ではなかったので人々に自分の事は誰にも話してはならないと戒めたのです。でも人々にそのような理解は全くありませんでしたので、口止めされれば、されるほどイエス様の癒しを見て我慢できなくなってイエス様のみわざを言いふらしてしまったのです。

適用
○ヘリ下られたイエスの様に
イエス様は困っている人ととことん付き合います。有る人は困っている人がいたら3分話を聞いて、それでは祈りましょうと言って関係を終わりにします。それは私にはできないからあなたとの関係はこれで終わりですというメッセージです。へりくだられたイエスの様に身振り手振りでとことん話を聞いてその人の困っている事を一緒に悩み、解決の糸口を探ろうとする姿勢が大切です。現代の多くの人は利益にならない人とは関わろうとしません。お金にならないからです。これではどうしても主のみ心に生きているとは言えません。牧師であろうが、なかろうがあなたに助けを求めに来た人がいたらとことん話を聞いて一緒に解決しようとしてください。面倒くさいからと3分話を聞いて、それでは祈りましょうとだけ言って追い返さないようにしましょう。
キリスト教会と反対の事例
※日本の新興宗教は大きくなっている所が結構あります。それは困っている人がいたらみんなで助けるのです。それで信頼関係が生まれるのです。私達キリスト教会も自分の事だけ一生懸命になるのではなくイエス様の様に隣人と、とことんかかわっていく姿勢が必要です。そうすると教会はもっと生き生きとして変わってくるでしょう。

○私達の心の耳は開かれているか
私達の心の耳は開かれているでしょうか。朝に夕にイエス様の声なき声を聞き、イエスの心を理解しているでしょうか。(祈りを通して、聖書の言葉を通して、その他静かな時間を通して主との交わりを持つ、そこに聖霊が働いて主のみこころを教えてくれます)その御声を聴いたらその声に従う事がポイントです。それが心の霊的な目が開かれているという事なのです。

結び
イエス様の隣人を大切にする姿勢をもう一度吟味して模範といたしましょう。