マルコの福音書(35)

2022年12月13日

2017年6月4日
聖書箇所:マルコ7:1~23
宣教題:神の命令か、人間の言い伝えか  

先週は5千人の給食とそれに続いてガリラヤ湖上で嵐の中を歩かれたイエスのみわざを弟子訓練の視点から学びました。7章になりますと、がらりと話は変わります。少し長い箇所なので要点を絞って話します。話の内容:1~5パリサイ人の質問、イエスの回答6~15、弟子たちの質問17、イエスの答え18~23
①1~5パリサイ人の質問
この時点ではパリサイ人たちによるイエスに対する観察や審問の期間は過ぎています。イエスはメシヤではないと断罪して更にしつこく攻撃しています。
1:エルサレムから3日の道のりを経てイエスを攻撃するためガリラヤ地方に来ています。彼らの態度はいつも上から目線で人を見ている人たちですので、裁くのが得意です。使命をもってイエスを排除しようとしているのです。
2:以降が具体的内容です。キリストの弟子達が汚れた(けが)手で食べ物を食べているのを見て攻撃しました。ここだけ見るとパリサイ人も衛生的な事を考えて綺麗好きだったのだと思ったら大間違いです。そのではなく汚れた(けが)手で食べるとは、よごれた手の事ではなく、儀式的な汚れを指しています。パリサイ人(一般人も含めて)は外出して家に帰ると必ず宗教的な意味でまず手を洗います。ひじから指先まで。3~4節に書いてあるようなことです。これは先祖の言い伝えです。まだ文章化されていなかったので口伝(口で伝える)律法と言います。ミシュナと言います。これはモーセ律法の教えとはかけ離れた内容です。モーセ律法をユダヤ人々は形式的、自分たちに都合のいい解釈して口伝律法が出来ました。イエス様誕生の数百年前に出来上がっていました。
そこに市場から帰った時には汚れているから必ずからだを洗ってからでないと食事をしてはならないというしきたりがありました。モーセ律法にないことをユダヤの指導者たちは決まりを作って自分たちは神に熱心なものであると満足したのです。そして口伝律法を一般民衆にも押し付けたのです。これが5節にある昔の人の言い伝えであります。
因みに昔の人の言い伝えはイエス以降200年くらいすると文章化されて最終的にはあの有名なユダヤ教の経典であるタルムードという書物になります。
②イエスの回答6~15
彼らの意地悪な質問に対しイエスの答えはイザヤ書を引用して6:「あなた方偽善者」と呼んで痛烈に批判しています。8:神の戒め(命令)を捨てて人間の言い伝えを固く守っていると述べています。よくも神の命令をないがしろにしたものだと述べています。例として10:あなたの父と母を敬えというモーセの律法に対してコルバンと言えば神にささげたので両親の為には何もしなくても律法破りにはならないような巧妙な抜け口を作りました。それをイエス様は偽善として痛烈に批判しています。結びとして汚れはパリサイ人たちが言うように外から入るのではなく人の心の内から出てくるのだと真理を述べました。
③弟子たちの質問17
しかし弟子たちの反応は芳しいものではありません。意味が良くわからなかったのです。
④イエスの答え18~23
18:あなた方までそんなにわからないのか。外側から人に入ってくるものは人を汚さない。人の心から出るものが人を汚す。19:すべての食物は聖いと宣言された。

21~22:新共同訳が正確です。人の心から出るものを12述べています。つまり人間の心から悪い思いが出てくるからである。⑥不品行・盗み・殺意・姦淫・貪欲・悪意(原文はすべて複数形、具体的行為)後半⑥詐欺、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別(原文は全て単数形、心の在り方)これが人の内から出てきます。救いを受けても全てを捨て去ることは出来ませんが、聖霊の働きによってこのような悪しき性質を弱めていく事は出来ます。人間理解を深めていこう。
適用
○現代のキリスト教会における口伝律法とは何か
今日の話は他人ごとではありません。現代のキリスト教会も同じようなことをしています。今までキリスト教会は週の初めの日、日曜日に礼拝することを大切にしてきました。私たち本庄キリスト教会も日曜礼拝を大切にしてきましたし、これからも守っていきたいと願い守っています。これは良いことであり素晴らしいことです。まずここはしっかり皆さんで確認したいと思います。
しかしキリスト者の中には日曜日午前の礼拝を律法厳守の様にして厳守しなければ絶対だめだという人もいます。しかし様々な事情で日曜日に仕事をしなければならない人や日曜日に時間を取りにくい人がいることも事実です。幸いにも本庄教会では日曜日にお仕事をされる方の為に午前の礼拝スタイルとは違いますが、午後に小グループで聖書を学び、祈りの時間を持っています。本質的には同じ礼拝です。また水曜日午前は聖書を読む会を開催し聖書を学び、祈りの時を持っています。これも日曜午前の礼拝スタイルとは違いますが主を崇め礼拝の時を持っています。聖書の原則は週に一度体を休め兄弟姉妹が共に集まって主に礼拝を捧げる事が大切です。ただ形式的に、日曜午前の礼拝に来てさえいれば本人の姿勢や中身に関係なく礼拝した気分になって、誇っているとしたら現代に於ける口伝律法です。イエス様が最も嫌うものですね。
 また収入の十分の一神にお返すする十分の一献金というものがあります。恵みの業で大切です。但しこの行為は律法、規則ではなく本人の自発的な信仰が最も重要です。それ故ある人は、自発的に収入の十分の一は神に献金してお返し、残り十分の九は自分が使わせていただくと心に決めている人は良いことです。律法的ではありません。是非実践にしてもらいたいと思います。
しかし長い人生の中には経済的に厳しい状態が続き十分の一献金が厳しい時があります。そういう時にはイエス様に相談して金額を決めればよいのです。誰も何も言いません。要は喜んで、気前よく神のものを神にお返しする心が大切です。十分の一より少ない時もあれば、多い時もあるのです。この献金の原則を聖書から理解してイエス様に祈って相談し、確信をもって喜んで捧げてください。そうすれば教会会計は安定し、神の祝福はあなたに跳ね返ってきます。決して現代の口伝律法にはならないようにして下さい。
○人はどうして口伝律法が好むのか
人は原則的なポイントをよく理解して行動するよりも、口伝律法、規則を作って考えないで従う方が楽ですから沢山の口伝律法をつくります。そして段々と規則を増やしやがて自由な発想を失い、頭の中がロボット化していきます。指導者の指示待ち人間になりやすいのです。巧妙なあくどい指導者は人間の罪の性質を上手に利用して口伝律法をつくる。自立して考える習慣を身に着けよう。
結び
口伝律法(聖書にない決まりを多く作って教会運営すること)に熱心な教会はやがて衰退します。理由は自ら考えて聖書の原則で行動する事が出来ないキリスト者が多くなること、指導者に盲目的に従う人が多くなることがあげられます。今日の聖書箇所はパリサイ人の事だけではありません。私達の事なのです。是非いつも良く考える習慣を身に着けて自立したキリスト信徒にならせていただきましょう。その為には通り一遍に聖書を読むのではなく、聖書が何と言っているかを聖書の文脈の中で祈りつつ聖霊に教えられて、学び、捕らえることです。お祈りしましょう。