マルコの福音書(34)

2022年12月13日

2017年5月28日
聖書箇所:マルコ6:45~56
宣教題:わたしだ、恐れることはない  

今日の宣教箇所はマルコの福音書6章45節~56節です。前回はイエス様が弱り果てている5千人以上に人々に5つのパンと2匹の魚を通して分け与えた奇跡のみわざから学びました。またこの御業は弟子達にイエスこそ神であることを再認識させ、ご自身を信頼して生きる信仰訓練である事も学び取りました。皆さんもそれぞれ適用して学んだ事と思いますがいかがでしたでしょうか。私は話し終わった後、少しの工夫で食物を必要としている人にお届けするフードバンクもイエス様の心を表している良き業であると改めて思わされました。私達は主イエスからそれぞれ使命を受けてこの地に置かれていますが、自分が無理なくできる形で主のみ心を表して行ければ幸いです。

またパンを人々に配るというイエス様の奇跡のみわざを広める働きは12弟子の手を通してなされました。私達も小さなキリストの弟子の一人でありますが、この者を通して御業が進められるのは感謝な事です。

さて今日の聖書箇所はマルコの福音書6章45節~56節になります。5千人の給食はどこで行われたか?思い出してみましょう。そうです。ガリラヤ湖北東部の町ベツサイダ・ユリアスの近くの自然豊かな所の出来事でした。45節にベツサイダという町が出てきますので、またもとの場所に戻るのかと勘違いしやすい所ですが、よく読んでみるとそんな事はありません。このベツサイダはガリラヤ湖北西部にある別のベツサイダの町であります。ここは地図に出てくるカペナウムから10キロメートルくらい西にある町のようです。ここを理解すれば混乱しなくて済みます。
区分は①45~47奇跡が行われた当日の夕刻②夜中3時頃の出来事③ゲネサレの地にて

①45~47 5千人の給食が行われた日の夕刻
イエスは無理やり弟子をガリラヤ湖北西側にある同じ名前のベツサイダに向かわせました。反対側という事になります。イエスのとった行動の背景は民衆がイエスを無理やり政治的な王に祭り上げようとしていたからです。これはイエス様の本意ではありません。その間に群衆を解散させ、働きの後、一人静かに祈りため山の方に退かれました。夕方午後6時頃で、すでに弟子たちはガリラヤ湖北部を舟で西に向かっていました。舟は途中まで順調に進み、湖の真ん中まで来ていました。
②48~52 夜中3時ごろの出来事
ところが、途中で向かい風の為、舟は一向に進みませんでした。彼らは西に向かっていますので地中海の方から西風が吹いていたことになります。しかもかなり強い風です。春にこのような現象は良くあるそうです。夜中の3時頃とありますので最も暗い時間帯に弟子たちは約8時間、西風と格闘していたことになります。弟子たちが不安と疲れの中にあったところをイエスは水の上を歩いて通り過ぎようとしたのです。しかし彼らにはイエス様だという事が分かりませんでした。幽霊だと思ったのです。そこで恐ろしさの余り叫び声をあげます。取り乱していしまったのです。これは当然の事ですね。私達もその場にいたら腰を抜かすような場面であったと思います。

しかしイエスは近寄り弟子たちに「私だ、恐れる事はない」アイ・アム。わたしだ。イエスの神宣言の言葉です。主エジプト3:14 私はある。ヤハウェ、創造主なる神のお名前は(わたしはある)と言います。この話はマタイ14章に平行記事があります。マタイではペテロが少しの時間イエスと共に水の上を歩いていますが、風を見て怖くなりおぼれそうになります。しかしイエス様と一緒に舟に乗り込むと嵐はやんだのです。51節では彼らのイエス様に対する驚きの大きさが正直な心が描かれています。「彼らの心中の驚きは非常なものであった。」と記録されています。41節にありますように、イエス様がパンと魚を手に取って祝福するとどんどん増えていったのでそれは、それは、大きな驚きだったのです。この8時間前のパン奇跡の意味をまだ弟子たちは悟る事が出来ないでいたからです。それに続いて、あらしの中で水の上を歩くイエスを目の当たりにしたので恐怖心で一杯になったという事です。
念の為再度申し上げますが、先週の礼拝で話した47節のイエスの行為、5つのパンと2匹の魚をとり、天を見上げて「祝福を求めた」と書いてありますが、原文には「求めた」という言葉はありません。「彼は祝福した」だけです。マルコはイエスこそ真の神であるので祝福したと記録しているのです。「祝福した」と「祝福を求めた」では全くイエスの立場が正反対になってしまいますので誤解の無い様にお願いします。聖書を読むと時々意味が分からない文章(訳)が出てくるときは他の聖書を読み比べて見ると理解が進みます。因みに口語訳、新共同訳、詳訳聖書は祝福したと訳されています。
③53~56ゲネサレの地にて
彼らはわずかな時間で移動できる距離を夜中中、舟に乗り続け8時間近く掛かって、やっとの思いでガリラヤ湖北西部にあるゲネサレの地に到着しました。ガリラヤ湖は別名ゲネサレ湖とも言います。ここでも人々はイエスの周りに集まりました。それは奇跡の御業を見たからです。病人でイエスの着物に手を触れた人は皆癒されました。しかし依然として彼らは表面的な信仰だけでイエスを政治的なメシヤと信じて王にしようとしたのです。この理解だけが進むとやがてイエスを十字架につける側に立ってしまうのです。
適用
○人生の向かい風(試練)に会った時
今日の宣教は適用がしやすいです。私達の人生は願い通りにならない方が多いです。それは私達が成長するためです。私達の人生において経済的な困難、子供の教育、自身の健康上の困難(足が痛い、腰が痛い、体が思うように動かない)常に多くの課題があります。それは人生の向かい風です。しかしこのような時もイエス様は共にいて下さり、共に考え、共に苦しみ、共に悩み、道を開いてくださるのです。是非皆さん試練の時はイエス様を見上げて力を受けて歩みましょう。
○恐れを感じた時
日本は平和だと言っても物騒な世の中です。キリスト者も事件・事故に巻き込まれる時があります。不安になる時もあります。特に現代は老後の心配があります。今十分老後でも老後が心配だというのです。しかし心配はありません。私はある(ヤハウェ)なるお方、それは主イエス「私だ、アイ・アム・エゴー・エイミ」が、わたしだ、恐れる事はないと語り掛け共にいて下さるのです。
結び
今日の箇所も前回に続いて弟子訓練がテーマでした。使徒とされた弟子達は何回もイエスが与える試験を受けます。そしてだんだんと整えられ、イエスこそ真の人であり同時に創造者なる神であることを体験していくのです。私達の信仰生活も同じです。知らず知らずのうちにイエス様が私達を、信仰訓練の場に置いているのです。そしてパスしなければいつも同じ段階です。何回も試験を受け続けるのです。でもパスしたら次の段階に進みます。試験の課題はそれぞれ皆、信仰に応じて違います。こうしてだんだんと私たちはイエス様と性格、性質が似てくるのです。これが聖化と呼ばれるもので一生続くのが信仰生活です。今週も信仰によって逆風を受け止めてまりましょう。