マルコの福音書(30)

2022年12月13日

2017年4月23日
聖書箇所:マルコ6:1~6
宣教題:イエスのナザレ再訪問  

今日からマルコ福音書6章に入ります。いよいよイエスの30歳から始まる公生涯は調度中頃になります。根拠はもうすぐ2回目の過ぎ越しの祭りが近くなってきますので中頃であることが分かります。一方ユダヤ人指導者は既にイエスのメシヤとしての様々なみ業に対して悪霊の頭ベルゼベルの力によるものだと断罪してイエスのメシヤ性を否定しています。
この時期にあってもずっとイエスを全否定する路線で攻撃し続けています。ユダヤ指導者は最後までイエスを否定し攻撃し続ける事になります。民衆も一部を除いて指導者に支配されていますのでイエスを否定するようになります。それ故、イエスの宣教は一般大衆に印としての奇跡の御業を通して証するより、また、真理を求めない人に対してはたとえ話を通してかえって話がわからないようにしていきます。しかし信仰によってイエスを求める人に対しては分かるように話していきます。特に4章以降は弟子たちに対する弟子訓練の視点で語り掛けています。それ故6章は7節以降の弟子派遣の前段階として、弟子訓練の視点で学んでいくと理解が深まります。

さて今日の場面はイエス様の公生涯で2回目のナザレ訪問のところです。1回目はルカ4章です。イエスがご自分をメシヤであると宣言しますが人々は否定します。ヨセフの子ではないか、正式にユダヤ教教師としての訓練を受けていないではないかと言われたのです。そして町の外に追い出され崖から突き落とされそうになります。では2回目の訪問はどうなったのでしょうか。読みながら進めてまいりましょう。

○イエスに対するつまずき 1~3
1:そこを去ってとは:今までイエスはカペナウム近辺です。ご自身が自然界を支配し、霊的世界を支配し、人を癒し、命を支配する創造主なる神である事であることを示してきました。郷里に行かれた。そうです。ここはナザレです。この町はカペナウムから南西に30キロに位置する町です。皆さんご存知のようにナザレはイエスにとって少年時代から長い間過ごした故郷ですから顔見知りの人も多くいた事でしょう。この時イエスの名声は既に広まっていました。12弟子も一緒に来ています。多くの人の関心を集めた事でしょう。それに何となく自分の生まれ育った故郷は心が落ち着く場所であります。
2:安息日に会堂に入り聖書(律法と預言者)を教え始めます。神の言葉を大切にしていましたから当然の事であります。しかもイエスの語り方は律法学者たちの様に決まりきったことを語るのではなく、きっちりみことばを解き明かして神の恵みを語るのです。それ故人々は驚きをもって受け止める様になります。
しかしこの2~3節の言葉は日本語では丁寧に書いてありますが、実際の所、人々の冷たい反応を語っている言葉なのです。イエス様の力ある言葉や知恵、様々な神の子の印としてのみわざは認めていますが、イエスが正式にユダヤ教教師ラビの訓練を受けていないという理由で不信感を持っているのです。「この人はどこからこういうことをどこから得たのでしょうか。」ここでは日本語訳ですので丁寧に語り掛けている様になっていますが、実際の話し方は非常に見下した言い方です。どこからか、この者に、これらの事は、この3つの単語です。

3:この人は大工の子ではありませんか。これは大工さんを馬鹿にしているのではなく正式なユダヤ教教師ラビの訓練を受けていないから信用できないと言っているのです。
マリヤの子:単なるマリヤから生まれたという意味ではありません。出生に疑いがあるという事です。ヨセフとの結婚関係から生まれた子ではなく、結婚前に不貞の罪を犯して生まれた子ではないかという疑いの発言であります。当時の人々はイエスをそのように疑ったわけです。聖書的にみれば勿論、イエスは聖霊によってマリヤを通して生まれたお方であります。

もう一つのつまずきは、イエスの異父兄弟4人の兄ではないか、妹たちとありますので2人以上の妹がいた事が分かります。このナザレに住んでいる普通の人でしょうという事になります。こうしてイエスに対する彼らの評価は散々なものでした。ヤコブとは最初はイエスを信じていませんでしたが、後に信仰を持ちエルサレム教会で指導者として歩んだヤコブです。イエスの異父兄弟になります。使徒であり、最初の殉教者です。また信仰と行いの大切さを説いたヤコブの手紙の著者です。

○イエスの対応 4~6
4: ナザレの人々はイエスの育った環境や家族の事をよく知っていました。本人そのものよりも外側にある情報を優先して色眼鏡で見ていたのです。故にイエスの本質が見えなくなってしまったのです。これに対する発言が4節のイエスの言葉:預言者が尊敬されないのは自分の郷里、親族、家族の間だけです。
5:力ある業を行う事が出来なかった。少数の病人に手を置いて癒しただけでした。イエス様はこの頃になると不特定多数の人を対象にしてご自身がメシヤとしての癒しをするのではなく信仰によって求める人しか癒しませんでした。それ故少数の病人に手を置いて癒しただけだったのです。6:ナザレの人々はイエス様が驚くほどに不信仰な人々が多かったという事になります。

適用
○真のイエス理解は聖書のみ
ナザレの人々は少年期時代から大工としてのイエス様を表面的に見ていたのでイエスに躓きました。私達もイエスを単なる宗教家とか聖人というレベルで判断したのでは全くイエス様ご自身に対して見当違いな見方をしてしまいます。いつも聖書から完全な人であると共に完全な神であるという視点でイエス理解を深めてまいりましょう。

○人間関係をよくする秘訣は
私たちが人と関わる時、ナザレの人々がイエスを上から目線で見たように見てはなりません。この人は自分より優れた人であるという認識、謙虚さをもって接する事です。ここからより良い人間関係は始まります。いかがでしょうか。ピリピ2:3

結び
弟子たちはこの後2人1組になって伝道に遣わされます。イエスのナザレ訪問を通して彼らは直にうまくいかないことを学んだと思います。ナザレの人の心はどうして頑ななのか。どうしてイエスに躓いたのか。よく考えるきっかけになったと思います。私達もキリスト者として生きる上でイエス様の大宣教命令を思い浮かべる時にどうしたらよいものかと考えさせられます。私が今大切に思っている事は「自分の生き方を通してキリストを証する」また「キリストにある良い業」に生きることです。そしてイエス様の性格、生き方に似てくることです。時間はかかりますが最終的にはそれしかないと思うのです。お祈りいたしましょう。