マルコの福音書(29)

2022年12月13日

2017年4月9日
聖書箇所:マルコ5:35~43
宣教題:恐れないでただ信じていなさい 

今日はマルコ福音書5章35節からです。今迄の流れを確認してみると、ユダヤ人指導者たちはイエスの様々な奇跡のみわざや働きは悪霊の頭、ベルゼブルによって行っているとして断罪し、イエスをメシヤと信じないように民衆を扇動していきます。これによりイエスの働きは民衆から弟子訓練に変わっていきます。それ故4章以降の流れはイエスの弟子訓練という文脈(コンテキスト)で読む必要があります。
4章以降続くイエスの御業は「イエスこそ真の神」だという事を示しています。ガリラヤ湖上であらしの時に、風をしかりつけ、湖に向かって静まれという言葉一つで嵐を静め、自然界を支配する方。また悪霊レギオンに縛られていた人の癒しを通して霊的世界を支配する神、つ図いて続いて12年の間長血を患っていた女の癒しを通して癒し主なる神、またヤイロの娘の蘇生を通して、死者をも生き返らせる命の支配者なる神であることを示しています。今日の箇所をイエスこそ真の神であるという視点で学んでまいりましょう。

話の流れは5:21~24の続きです。会堂管理者ヤイロの娘が死にかけていました。そこでヤイロはイエスの足元にひれ伏してイエス様に自分の家まで来てほしいと頼み込みました。イエス様は快く引き受けヤイロの家に向かいます。ところがイエス様の周りには多くの人々が集まっています。そこに12年間長血を患った女性がイエス様に癒しを求めて着物の房に触って癒されました。この房こそ神の言葉を象徴的に表したものです。この様にイエスに対する信仰こそ神の癒しを受ける源であります。
癒しは女性にとって信仰による素晴らしい体験でしたが、一刻も早く自分の家に来てほしいヤイロにとっては、じれったいというか、焦りがあるというか、何とも複雑な気持ちでした。そしてイエス様が女性を励まして話をしているときにヤイロの家から使いの者が来て娘がなくなったという知らせを伝えに来たのです。ここから話が次の展開になってきます。ここの話は2つの区分になります。絶望の知らせとイエスの御業による解決です。

1、絶望
35:死の知らせ「あなたのお嬢さんはなくなりました」この知らせはヤイロにとっては悲しい知らせでした。一気に絶望状態へと突き落とされていった感じです。私たちはこの世に生を受けてから誰でも死ぬことが定まっていますが、いざその時になると家族にとっては一番大きな悲しみがあるのではないでしょうか。ヤイロの場合もそうでした。さらに追い打ちをかける様に「この上先生を煩わす事はありましょう」というイエスに対する冷めた言葉でした。亡くなったのだから後は直に葬式の準備だけという知らせで受けても絶望しか残りません。
○死の恐怖
この死で終わり、これで娘と一緒に居られない。娘の花嫁姿も見られない。ヤイロの気持ちは悲しみを超えて恐ろしくなっていったのです。

2、イエスの御業による解決
しかしイエスによる解決がありました。
36:イエスは使いの人の言葉を無視して(聞き流して)ヤイロに励ましの言葉を述べています。恐れないで、ただ信じていなさい(信じ続けなさい)。何を信じていなさいと言ったのでしょうか。それはこれから成されるイエスの御業がなされるので恐れる必要はないという事です。主が共にいて下さるなら絶望から希望に変えられるので恐れる必要はないという事です。
37:3人を連れてきた。弟子訓練。
38:しかし現実はイエスの希望とは全く逆の状況でした。会堂管理者ヤイロの家に着いた時、家族や他の人々が死を悲しんでおりました。取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしていました。ここに家族の悲しみが現れています。やはり者には順序というものがありますので、親よりも早く娘が死ぬことは大きな悲しみです。私たちも自分達に適用してみたらどんなに悲しいかが分かります。更に悲しみを演出する為に泣き女が大勢雇われていました。金持ちは沢山の泣き女達を雇って悲しみを演出しているのです。マタイ9:23(笛吹く者)

39:イエスは淡々と現実を見ていました。何故取り乱して泣くのか。子供は死んだのではない。眠っているのです。確かに子供は息を引き取り死んだけれども、命の支配者なる創造主の前には眠っているものと同じである。このような意味であります。
40:でも人々は嘲笑っていました。死んだ人を生き返らすことは出来ないという心から出た事で笑いです。クリスチャンも人にイエスの復活の話をすると笑われます。そのような事はあり得ないという考えからです。これがこの世の一般的な受け止め方であります。
41~42:しかしイエス様は弟子達3人と両親だけを連れて少女の部屋に入り、子供の手を取り、タリタ・クミ(アラム語)ギリシャ語と並んで当時の世界共通語。少女よ、起きよという意味。その言葉により即座に少女は起き出して歩き始めました。イエスに不可能はないのです。
イエスは三位一体の第二位格の創造主なる神であり、この天地を神の言葉を持って創られたお方ですからその言葉に力がありました。こうして3人の弟子やヤイロ夫妻は12歳の少女をも生き返らせたイエスの力を目の当たりにして驚きに圧倒されました。

適用
○イエスこそ命の支配者である。
ヤイロに恐れるなと励まし、少女にタリタ・クミ(少女よ起きよ)という言葉一つで生き返らせた命の支配者なるイエスの力をもう一度確認して、このイエスを信頼して歩んでまいりましょう。

○困難の大きさに比例して祝福も大きい
ヤイロにとっては3つの困難、悲しみがありました。それは娘の重い病気、途中で待たされたこと、娘の死がありました。しかしその困難が大きければ大きいほど恵みや祝福も大きいのです。私やあなたの人生も思うようにはいきません。しかし主は全てをご存じでそれぞれに「ベスト」という道を備えています。いつも大きな恵みをもって共にいてくださる主を見上げて歩んでまいりましょう。これが私達キリストの弟子達への訓練であるのです。

結び
信仰とは望みえない状況に逆らい継続して神に信頼する行為です。是非共あの長血を患ってイエスの着物の房をつかんで主の力に信頼した女性の様に、また「恐れないで、信じ続けよ」とヤイロに語られたように、今日も私たちのそばにいて死後の世界の希望を与えるお方であります。変わらない主イエスを見上げてこの受難週、イースターの時もキリストの弟子として訓練されながら歩ませていただきましょう。