マルコの福音書(26)

2022年12月13日

2017年2月26日
聖書箇所:マルコ4:35~41
宣教題:あらしを静めるイエス 

今日はマルコの福音書4章35節からです。文脈を確認してまいりましょう。今イエス様は長い一日が終わろうとしている夕方。疲れ果てている状況の中にあります。今日の話は3章20節からの締めくくりです。エルサレムから来た律法学者たちがイエスの様々なみわざは悪霊のかしらベルゼブルによるものであると断罪しイエスがメシヤである事を決定的に否定しました。勿論イエス様は彼らの矛盾に満ちた考え方を論破していきます。

それと共にイエスの母と弟、妹たちが来てイエスを連れ戻しにやってきました。それは人々の間にイエスが悪霊につかれているという噂が立ち、心配したからです。この事件以降イエス様の、たとえ話は「真に聞く耳の有る者だけ」が分かるように話し方が変わってきます。

続けてガリラヤ湖におられたイエスの周りには群衆が押し寄せます。イエス様は小舟を取り寄せ舟の上から岸辺にいる人々にたとえ話で語り掛けます。しかしこの内容は、神の国の奥義であったので群衆には何のことかわかりませんでした。真に聞く耳を持っていなかったからです。そして群衆はイエスのもとから去っていきます。しかしイエスは弟子たちに多くの神の国の奥義としてのたとえと解釈を話されたのです。

35:この非常に中身の濃い大きな流れがあって35節の「さて、その日の事、夕方になって」という言葉が続きます。一連の中身の濃い一日を過ごしたイエス様は30代であっても非常に疲れているのです。
36:でもこの時、イエスの心は既に弟子たちの信仰の訓練をすること(弟子訓練)に向かっていました。そして弟子たちに小舟でガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと呼びかけます。そして舟に乗っていきます。この時、イエス様たちの舟だけでなく他にも数艘の小舟(複数形)がついてきました。

37:ガリラヤ湖の内陸部に差し掛かった時に、突然突風が吹き荒れました。激しい風ですね。これはすり鉢状になっているガリラヤ湖では良くあるそうです。当然舟は波をかぶり水が入ってきます。これが弟子訓練の場面です。

38:でもイエスさまは舟のともの方で寝ています。ともとは舟の後ろの部分です。このところには座る為のベンチがあって唯一水がたまらない場所で寝ていたのです。しかもぐっすりです。ここに人間としてのイエスの姿があります。イエス様は中身の濃い一日を送りましたので疲れ切っていたのです。当然私たちと同じ人間でもありましたので疲れるのです。十字架刑の時も肉体が裂かれ痛みや苦しみの極みとあります。
この非常に危険な中で弟子たちは不安になり寝ているイエス様を起こして、「私たちがおぼれて死にそうでも何とも思わないのですか」と訴えます。マルコはペテロの従者であり、ペテロから話を聞いて、マルコ福音書をまとめましたのでこの訴えはたぶん弟子の代表であるペテロの発言であったのでしょう。

39:しかしイエスは風をしかりつけ、波に向かって黙れ、静まれ(口輪をはめよ)と言われます。するとすぐに風はやみ、波はさーと引き大なぎになりました。何事もなかったようにたちまちのうちに静かな湖に戻ったとのです。言葉で天と地を創造されたイエスは言葉で風をしかりつけ、あらしを静めたのです。即ちイエスこそ天地の支配者であるという事が書かれているのです。創世記1章には創造主は言葉で天地をおつくりになっている事が書かれています。それと同じです。

40:弟子たちはこの行為を見て恐怖に包まれてしまいましたが、イエスは言います。新共同訳:何故怖がるのか、まだ信じないのかと語り掛けます。この訳はいいですね。弟子たちの信仰が成長していないのを嘆かれました。弟子訓練しているのです。そしてこの言葉は私たちに対しても語りかけています。信仰生活30年・40年してもまだ私を信頼して生きる事が出来ないのかと言っているのです。

41:弟子たち反応、弟子たちはイエスに対して恐れを抱くようになりました。怖いということではなく畏怖の念を抱いたのです。弟子たちは創造主だけがあらしを静めるお方である事を知っていましたので、まさしくイエスこそ神であることを知り恐れの思いを抱いたのです。

適用 
1、イエスの二面性
これは性格に裏表があるということではありません。イエスというお方は完全な人であるという事です。中身の濃い仕事をして夕方には小舟の上でも寝るくらい疲れ果てていました。私たちと同じ体を持つイエス様の姿であります。同時にイエス様は言葉一つであらしを静める天地の創造主なる真の神であります。完全な人であると共に天地の創造主なる神であるという意味でイエスは二面性を持っているのです。

2、人生の嵐にあった時の対応は
ガリラヤ湖の舟旅は私たちの人生の試練にも例える事が出来ます。ある人にとっては試練が続くかもしれません。これは奥義としての神の国の現代に於いては当然起こり得る事です。私たちの訓練の為に起こるのです。しかし人間でもあるイエスは私たちが試練に会った時の弱さや悩みを理解してくださいます。また神としてのイエス様はどんな時にも私たちを守り導いてくださいます。たとえ私たちが試練のゆえに命を失ったとしても、救いは完全に守りとおして下さいます。そしてやがて栄光の体に変えて下さるのです。

結び キリストにある信仰生活とは
病気にならず健康で過ごすことができ、つらいことが少なくなり、良いことばかり続くのが信仰の祝福とは限りません。勿論健康で辛いことや悲しいことが少ないに越した事はありません。ですから良いことが続くように願い祈る事は間違いではありません。
しかし、そのような願いばかりに執着しすぎると、自分のことしか考えない利己主義的なキリスト者になりやすいです。最も大切なキリスト者の生き方は、たとえ人生の嵐の中(試練)にあってもキリストにある平安と喜びで現実を乗り越え、感謝をもって隣人愛に生きる事が出来るかがポイントなのです。この点を忘れずキリストの心を自分の心として生きる事を目指して歩んでまいりましょう。
また人であり神であるイエスが私たちの救い主なのですからどのような困難な時にもイエス様を信頼して歩んでまいりましょう。祈り。