マルコの福音書(24)

2022年12月13日

2017年2月12日
聖書箇所:マルコ4:24~29
宣教題:神の国のたとえとは 

今日もマルコの福音書4章から続けて学んでまいります。文脈を確認してまいりましょう。
前回は23節で終わりにしましたので続きの25~26節を少し見てまいりましょう。

神の言葉に対して聞く耳を持つ人を神は豊かな実を実らせます。しかし、神の言葉に対して聞く耳を持たず、イエスに対し自分の利益ばかりを求める人は持っている物までも取り上げられてしまいます。それ故イエスは弟子たちに聞く耳を持ちなさいと言われています。

この原則は現代に於いても同じです。主のみことば対して聞く耳を持つ人は霊的な実を実らせる事が出来ます。しかし聞く耳を持たない人に対して持っているものまでも取り上げてしまうのです。でありますから私たちも主の前に神の御心は何かを求めて従っていく人でありたいと願います。

続いて26節~29節の神の国のたとえを学んでまいりましょう。この箇所は神の国の奥義の続きです。別の言葉で奥義としての神の国、大まかに言うと「今の教会時代」を表しています。ですから今、私たちは「神の国の奥義の時代」に生きているのです。前回4章前半からこの時代は様々なタイプの人、信者がいる事を学びました。ある人は福音に対し全く関心を示しません。ある人は信仰を持ちますが信仰故に困難があるとすぐにつまずいてしまいます。ある人はこの世の心遣いや、富の、惑わし、その他の欲深さにより信仰の実を結ぶ事が出来ません。ある人はみことばを聞いて受け入れそれぞれに相応しい豊かな実を結びます。様々でありますので、驚き慌てる事無く、また躓くことなく、常に聞く耳をと柔らかな心をもってみことばを受け入れ、自分に与えられた賜物は何かを理解し忠実に主に仕えていく事を学びました。この平行記事であるマタイの福音書13章、イエス様の一連のたとえ話を読むとイエス様が解説したところの理解が深まります。
26:イエス様は神の国、今の全世界規模の教会時代は「人が地に種を蒔くようなものだ」とたとえで教えてくださいました。解釈も含めながら進めていきます。3つの段階がかかれています。

①種まき 26節
皆さんは種を蒔いて大きく育てた経験があるのでしょうか。例えば柿の種とか(食べる柿の種ではなくておいしい実のなる柿の種)色々あると思います。環境に適したやり方をすれば芽を出して育ちます。何故か?種の中に命があるからです。こういう時に言う言葉があります。種だけに「良く育ったね」とか「やったね」。そうです。種には命があるのです。私の能力で説明することは出来ませんが、種に命が組み込まれて、命が宿っています。柿の種からは柿がなり、稲もみからは稲が実り、麦の種からは麦が実ります。
ではここでいう種とは何の種か。み言葉の種です。聖書のみ言葉には力があります。誰が語るかは関係なく、聖書の言葉そのものに力があります。皆さんであっても牧師であっても、聖書が言わんとすることを言わんとするように語れば聖書の言葉に力があるのです。そして聖書の言葉を本気で信じた人はいのちの力を受けるのです。それは聖書が誤りのない神の救いの言葉であり、聖霊が働くので人を変える力があるのです。皆さんも最終的には聖書の言葉から力を受けたのではありませんか。実に種は聖書、神の言葉であり、種まく人の中にはここにいる私たち一人一人も入るのです。
②種の成長 27~28節
続けて種には命がありますから条件さえ整えばひとりでに芽を出して育つのです。これは4章の前半で学んできたとおりです。27節で事実が示され、28節で理由が述べられています。地は人手によらず実をならせる。誰がまいたかに関係なく芽を出し苗となり、穂となり、実を結ぶと有ります。これを見るとイエス様は麦のたとえを話していると思います。ここで注目したいのは「地は人手によらず実をならせる」という言葉です。ギリシャ語でオートマトス。どこかで聞いたような感じがしませんか。そうです、オートマチックのもとになっている言葉です。ひとりでに、自動的に動き出す。種の中に命が満ちていますので条件が整えば種の中にある命によって育ち実を結ぶのです。これは何にたとえられるか。参考箇所。テトス3:5~7。救いは聖霊の御業である。新生、救い、成長。

③収穫(刈取り)29
実が熟すると鎌を入れる。初夏の麦刈りや、秋の稲刈りです。鎌を入れるとは鎌で茎のところを刈り取る収穫の事です。今はコンバインで刈り取ってしまいます。種蒔く人の目的はこの収穫にあるのです。そしてイエス様の言いたいこと、収穫の時とはこの世の終わりの時の事です。別の言い方では新しい時代の始まりでもあります。12弟子から始まり、これから未来に亘り収穫の時(終末時代)がある事をたとえで教えて下さいました。

適用
本物の種(福音)を蒔こう
パウロが伝えた福音、救いのことば。イエス様が①私たちの罪の為に死なれたこと、②葬られたこと、③三日目に甦り、今も生きていると信じたら救われる。人が救われるのに必要なものはこれだけです。しかし福音の三要素を信じるだけでは足りない、救われない。当時でいうと割礼を受けないと人は救われない。モーセ律法を守らないと救われないと教える人が現れました。ガラテヤ1:8~9。これに対して異なる福音を伝える人は呪われるべきであると述べています。(引用)
私達も福音の三要素、そしていつも神のあふれる恵みに感謝し、神への信頼に生きるのが信仰生活なのだという事を繰り返し確認する必要があります。でないと直に福音プラス+アルファがついてきてパウロが教える福音と違うものになります。これを律法的キリスト教と言い、聖書の教える福音とは程遠いものです。是非本物の種(福音)を蒔こう

結果は主に委ねよう
成長させてくださるのは神のみです。Ⅰコリント3:6~8。福音の種を蒔き続けても芽が出ない時があります。自信を失う時もあります。しかし、神は私たちを責める事はありません。私たちの役割は与えられている人生を主の前に誠実に感謝しつつ生きればよいのです。結果は主に委ねていけばよいのです。そこが会社の成果主義やこの世の組織のノルマと全く違います。
それ故本庄キリスト教会の歩みも一人一人が主の前に誠実に明るく感謝しつつ生きればよいのです。結果は主に委ねていけばよいと聖書が教えているからです。安心感のある信仰生活です。

結び
主イエスが語られた、種まきのたとえは神の国の奥義、すなわち今の教会時代の中で如何に生きるべきかを教えるものです。もう一度本物の福音の中に命がある事、種は神によって成長させられる事を理解し、収穫の時に刈取りがある事、結果は主にゆだねる信仰に生きようではありませんか。