マルコの福音書(23)

2022年12月13日

2017年2月5日
聖書箇所:マルコ4:1~23
宣教題:聞く耳のあるものは聞きなさい 

今日はマルコの福音書4章から学んでまいります。学びの前に文脈を確認してまいりましょう。3章でイエスの12弟子が使徒に任命されました。彼らの特徴、性格を学びました。続けてイエスと律法学者たちのベルゼブル論争が起こります。律法学者たちはメシヤであるイエスの悪霊追い出しや癒しのわざは、悪魔、別名ベルゼベルによってなされたものだと断定しました。イエスはサタンがどうしてサタンを追い出せようか、そのような事をするならば立ち行くことができないで滅びるだけだと言って理に適った反論をします。続けて律法学者たちの罪は聖霊を汚す罪であり永遠に赦されず、とこしえの罪に定められると断罪します。
この論争以降律法学者たちのイエスに対する迫害はどんどん強まってきます。イエスは気が狂ったというものまで現れました。心配した母マリヤや兄弟たちまでが、イエスを連れ戻しに来たのです。今日の話はこの出来事を踏まえて学ぶと理解が深まります。尚マタイ13:1~23 ルカ8:4~18が平行記事になっていますので参考にしてください。

全体のあらすじを確認しましょう。
○今日の話はいつの事か?:イエスと律法学者たちのベルゼベル論争、即ち律法学者たちがイエスの御業を悪魔の働きによるものと断定した直後の出来事です。根拠はマタイ13:1の「その日」という言葉です。この時イエス様はガリラヤ湖のほとりにすわっておられました。例によって大勢の群衆が押し寄せてきましたので船に乗り込み安全な場所を確保してから陸地にいる群衆に向かってたとえ話をされました。

○2:この時以降イエス様は多くのたとえ話をされます。マタイ13章には多くのたとえ話が続いてきます。
3~9:よく聞きなさい。種まく人が種まきした。日本の種まきとは違います。例えば麦蒔きでは器に種を入れ蒔きます。4種類の場所にまかれました。一つは道端、すると直に鳥が来て食べていきます。私も時々米を少し庭にまく事があります。雀が食べに来て翌日には綺麗になくなっています。5:二番目はうすい岩地に落ちたタネ。岩地とは石灰岩の上に表面だけ土がかぶさっている状態の土地の事。種を蒔けばすぐに芽を出しますが岩地ですので根を張れないのです。直に枯れます。三番目はいばらの中に落ちたタネ。ある程度は伸びますが、茨も一緒に伸びて結局は実を結ばないのです。四番目は良い地に落ちたタネ。これは良い地ですので多くの実を結びます。
9:聞く耳のあるものは聞きなさいで締めくくります。この話を聞いた当時の群衆はイエス様が当たり前の事を当たり前に言っている話に聞こえたので、何の意味か分からず帰っていきます。

○10:残ったのはイエス様と12弟子といつも付き従う人たちだけです。何故たとえで話したのかとイエスに尋ねます。このたとえ話の意味は11~12にあります。①群衆から真理を隠すため(ユダヤ人は多くの特権に預かっていたがイエスを否定しました)②弟子たちに真理をより深く教える為③メシヤ預言の成就(イザヤ書6章)でもあります。真理を求める人とそうでない人を分ける。

○ではこの例え話の意味は何なのでしょうか。鍵は神の国の理解。
神の国は聖書の文脈ごとに意味が違ってきます。有名な「神の国とその義とをまず、第一に求めなさい」マタイ6:33。この場合の神の国は、信者の心の中に宿る神の支配を認めて生きなさいという事です。しかし11:神の国の奥義と書いてあるので意味が違います。聖書で言う奥義とはミステリオン、英語でミステリーですが、謎とか秘伝とは全く意味が違います。旧約聖書時代に啓示されていなかったが、新約時代になって初めて啓示された神の真理。これを聖書では奥義と言います。具体的には教会時代、今ここにあるキリスト教世界全体、キリストが世界の王として再臨される迄の期間を指しています。聖書的根拠はエペソ3:1~10教会を通して神の豊かな知恵があらわされる時代、コロサイ1:25~27神の奥義であるキリストの時代。これが神の国の奥義。

その理解に立って14節から見ていくと種まく人とは、みことばの種を蒔くことです。み言葉の種を蒔くと、4種類の人がいます。①道端:鳥(サタン)が持ち去るので信仰は持ちません。自分とは無関係と考える人。②岩地:信仰をもって救いを受けるが困難、迫害により躓く人。③茨の中:信仰をもって救いを受けるが心配事、富の、惑わし、物に対する強い欲望が優先して信仰の実を結ばない人。④良い地にまかれる:聖書のみ言葉を歓迎して喜んで従う人、このような人はそれぞれに相応しい人生の実を結びます。30倍、60倍、100倍の実です。

この奥義としての神の国、王国は長い目で見ればずっと続くわけではありません。キリストがメシヤとして再臨する時迄です。そして今、奥義としての神の国ではみ言葉の宣教をするときと4種類に分かれます。自分に関係ないと言って拒否する人、また信仰は持つが困難な事があるとこんなはずではなかったと思い、いつの間にかキリストから心が離れる人、また世の煩いや富の惑わしによりみ言葉がふさがれ、窒息状態となり信仰の実を結ばない人、また様々な弱さや失敗をしながらもみことばを受け入れそれぞれに相応しく、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人と分かれます。

またこれに関連してキリスト教会も神の目から見ると、この世的な教会、聖書をよく学びつつキリストに従うよりこの世の名誉やお金を愛し、見た目は豪華でも霊的には死んでいるようなキリスト教会もあります。また自分の教会は聖書的、学問的な教会だと誇って他を見下すようなパリサイ的教会もあります。また牧師が思い違いをして支配する独裁的な教会もあります。本庄教会の様に様々な弱さを抱えながらも主の恵みに感謝し助け合いながらキリストの心に生きようと願っている教会もあります。勿論多くの教会はそのように歩んでいます。
以上イエス様が語られたここで述べている神の国の奥義の大枠を理解しながら聖書的な信仰者、教会を目指して歩んでいこうではありませんか。

適用 ○神の恵みを得る秘訣は聞く耳を持つこと 3・9・23
神の国の奥義の時代は様々な人がいるのが当たり前の時代ですから躓かないでください。
神の言葉に聞く耳を持ち、柔らかな心を持とう。このような人は100倍の神の恵みを受ける。

結び
21~23明かりは燭台(ろうそくたて)の上に置こう 
私たちには真理の言葉を伝える使命がある。具体的には何か。キリストにある生き方をする事。主の恵みに生かされてキリストの愛を実践して生きること。この姿勢がポイントです。
キリストの香りが無くて口ばかり達者なクリスチャンの話を誰も聞きません。私たちの責任範囲は主の前にも人の前にも明るく元気に誠実に生きキリストの恵みの中で生きる事だけです。あとはすべて主に委ねていけばよいのです。これがキリストの明かりを燭台の上に置く者の姿です。