マルコの福音書(22)

2022年12月13日

2017年1月15日
聖書箇所:マルコ3:31~35
宣教題:健私の母、私の兄弟たち 

マルコの福音書から続いて学んでまいります。いつも申し上げている通り聖書を学ぶときは文章の流れ、文脈を理解しながら読むことが大切です。

学びの前に前後関係を見てまいりましょう。今日の箇所は3:20~21から繋がっています。イエス様は食事をする時間もなく人々に仕えておられました。熱心に仕えるイエス様を見て誤解をし「気が狂ったのだ」と悪く噂をする人まで出てきました。その話を聞いて母マリヤは息子を心配した子どもたちと一緒にイエス様を連れ戻しに来たのです。
その後イエス様は癒しの業をなされました。悪霊につかれ、目も見えず、口もきけない人を癒したのです。即ち悪霊は追い出され、目も見えて、口もきけるようになったのです。これを見たパリサイ人律法学者たちはイエスの癒しは偽物である。彼は悪霊どもの親分であるベルゼベルによって悪霊を追い出しているだけだと言って、イエスが聖霊の御業によって癒しをされたのを否定したのです。そして最終的、公式的にイエスはメシヤ(救い主)ではないと断言・否定したのです。イエスの御業は悪霊の頭ベルゼベルの業であると言い切ったのです。この彼らの悪意に満ちた拒否の決定は聖霊を汚す永遠に赦されない罪であるとイエスは宣言されたのです。

これに続いてマルコ3:31~35でイエスの母マリヤと兄弟たちがイエスを連れ戻しに迎えに来ているわけです。家族の態度はイエス様に対してよい感情を持っていない事が分かります。続けてみていきます。

1、イエスの母と兄弟たち 31
母マリヤ:この方はイエスの母に選ばれた方でありますので立派な人物であります。信仰的にも人間的にも優れた女性であると思います。但しマリヤも私たちと同じ罪人でありますので、無原罪と言って罪が無い訳ではありません。又はこの体のままで天に帰られたということもありません。当然イエスの母マリヤを通して祈ることは間違いですので、この点は誤解の無い様にお願いします。

兄弟たち:マリヤが生んだ弟や妹の事です。イエスとは異父兄弟です。特に有名なのが後に信仰を持ったヤコブです。でも少なくともこの時点ではイエスがメシヤであるという事は信じていませんでした。それ故、人々の噂を気にして連れ戻しに来ているのです。ベルゼベル論争によりイエスが悪霊と関わっているのではないか・本当に気が狂ってしまったのではないかと考えたのです。

32取り次ぎ:この時には大勢の人がイエス様を囲んで話を聞いていたのですが、お母さんが来て。会いたがっていると親切に教えてくれたのです。両親を敬うという事から当然の事として取り次いでいます。

2、イエスの答え
普通なら、まず立ちあがって親兄弟に直に会いに行きそうなものですが、イエスの行動は違いました。後の文章を読んでも会いに行っている様子もありません。そして不思議な言葉を発しています。
33否定的な言葉:両親を敬うことが当然のユダヤ社会での発言としては驚くべき発言を取り次いでくれた人々にしています。私の母とはだれですか。私の兄弟とはだれですか。これは反抗的なことではありません。親兄弟を無視することでもありません。当然忘れてしまったわけでもありません。家族関係を否定した言葉と考えると誤解してしまいます。
家族関係を大切にしつつも、神の御心を行うという、第一にすべきものを第一にして生きるという事を述べています。例え親しい家族といえども神の働きを妨害する事は赦されないのです。

この背景は当時のパリサイ人が血のつながりを重要視して、自分たちはアブラハムの子孫として生まれたら天の御国が保証されているという誇りや考え方を打ち破る発言なのです。

結論34~35
神の御心を行うものは誰でも私の兄弟、姉妹、又母なのだ。血のつながりではなく、信仰によってイエスのもとに来ること。これこそ神の家族である。故にイエスのもとに集う人又はイエスの弟子達こそ私の兄弟、姉妹、又母であると述べているのです。
ポイント
①神の御心を行う人:これはイエスを知っているだけでなく信仰によってイエスをメシヤと受け止める人々で在ります。このような人を主は一番喜ばれます。
②誰でも:「誰でも」という言葉がいいですね。当時異邦人は神から遠く離れた存在と思われてきました。異邦人はアブラハムの子孫ではありませんし、様々な契約と無縁の世界に生きていたものですが「誰でも」信仰によって神の家族の一員になる事が出来るのです。勿論ユダヤの人々も信仰によってイエスの兄弟、姉妹、母になる事が出来るのです。

適用
2つの家族を大切にしよう
キリスト者は幸いです。家族が2つありますから。血のつながりのある家族と神の家族です。たとえ血のつながりのある家族が無くてもキリスト者であるならば神の家族は残ります。これは日本人が大切に思う血縁関係、血のつながりはありません。しかしキリストの十字架の血潮によって買い取られ、一つ体とされた、神の家族です。エペソ2:19。血縁のある家族を大切にするとともに遺文が置かれている神の家族の一員として自分の役割、使命、天職を確認しながら神の御心に生きる事こそ価値ある人生ですから大切にしてまいりたいと思います。

結び
私たち異邦人は神の契約の民ではありませんが、ただ信仰と恵みによって神の子とされ、神の家族の一員とされて歩む事が出来ます。血のつながりがある家族がなくても、イエスをメシヤと信じて救いを受けた者の神の家族共同体があります。特に現代に於いては家族の関係が薄れている中でもう一度家族の在り方を大切にしたいと思います。同時に私たちには神の家族がありますのでこのつながりを大切にしながら歩んでまいりましょう。ヨハネ1:12~13