マルコの福音書(21)

2022年12月13日

2017年1月8日
聖書箇所:マルコ3:20~30
宣教題:健全なイエス理解 

今日からマルコの福音書に戻り、22回目になります。今迄は12使徒の人物像から学んでまいりました。今日のテーマはイエス様に対する正しい認識を持とうという事です。当たり前のことですが、例えばイエス様は実在したお方で33年の地上生涯を歩まれた事。何故ならイエスは実在の人物ではないと考える人もいるからです。また、聖書にあるようにイエス様は神の聖霊によってメシヤとしてのみわざを行っていたにも拘わらず、それを否定し、悪霊の頭、即ち、悪魔によって奇跡を行っているとか(22節)、イエスは汚れた霊につかれている(30節)としてメシヤなるイエスを否定しました。今日はこの辺を整理してイエス様に対し健全な理解を深めていきたいと思います。それでは話の流れを見ていきましょう。

背景20~21
イエス様は食事をする暇もなく人々に仕え、メシヤとして多くみわざを行いましたのでイエスをメシヤ、キリストとして受け入れる人が増えてきました。同時にイエス様を悪く言う人も多くいました。特に律法学者と呼ばれるパリサイ人がそうでした。それ故イエスは「気がくるっているのだ」とも言われました。そのような背景があってイエスの肉の家族、身内の者たち、この中には後にヤコブの手紙を書いたイエスの肉の弟ヤコブもいた事でしょう。家族は働きを辞めさせようとして家に引き戻そうとしたのです。信仰的に熱心過ぎてバランスを欠いて精神的におかしくなってしまったのではないかとイエス様を誤解したのです。

22節 律法学者の誤解と偏見
エルサレムから上ってきた律法学者:これがメシヤと評判になる人が現れると確認の為にエルサレムから派遣された人々です。彼らは最初じっと黙ってただ観察し、次の段階になると審問・質問に論争に入ります。三段階目はメシヤと認めるか、拒否するか決定するのです。この視点で見ると、ここでは「彼はベルゼベルに取りつかれている」と断言していますのでイエスに対して最終段階として最悪の誤解と偏見の目で見て断罪している事になります。因みにベルゼベルの意味は元々ペリシテ人の偶像神の名前で、家の主、家長という事になります。やがてユダヤ人はこの言葉に一文字を変えてベルゼブブ、「ハエの主」と呼んで悪霊どもの頭すなわちサタンの名前にしたのです。

更に律法学者たちはイエスの行われた癒しや奇跡の御業は神の働きではなく悪霊どもの頭ベルゼベルによって悪霊を追い出しているに過ぎない。イエスは魔術師、ペテン師であると断罪したのです。それが22節の誤解と偏見に満ちた彼らの悪意ある言葉です。

23~27イエスの反論
サタンはサタンを追い出せない。サタンを追い出すにはそれよりも強い人がするもの。国にたとえれば内部分裂して立ち行かなくなってしまうではないか。それはあり得ない。更にイエスは家の例えを加え律法学者たちの間違った論理を論破しています。27節で詳しく説明しています。強い人の家(悪魔が支配するこの世)家財を略奪するには(悪魔の支配下に入る人を解放するには)その強い人を縛る(悪魔に対する勝利の比喩的表現)従ってイエスは悪魔に仕えているのではなく、悪魔に勝利するのだと述べています。論理的にイエスは彼らに語り掛け、反論しています。
28~30裁きの宣言
29:イエスの働きは聖霊の働きにありメシヤの印であるにもかかわらず、律法学者たちは最終的に悪魔の働きの結果であると断言してイエスを拒否しました。こうした彼らの行為は聖霊を汚す事であり、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められると、イエス様は彼らに裁きの宣言をしたのです。ここまで来ると最悪の結末を招く様になります。但しこのイエス様の宣言は当時の律法学者たちに対して直接的に語られたことでありますので、私たちの時代に適用する必要はありませんからご安心ください。どのような罪でも神のみ前にあって悔い改めたら主は赦してくださいます。

適用
○あなたを誤解する人も理解する人もいる
多くの人々はイエスの隣人愛に満ちた行為や熱心さを理解し受け入れました。しかし世の中には熱心なキリスト信仰者に対し誤解する人も沢山います。キリスト信仰は排他的で寛容さが無いとか、凝り固まっているとか、誤解に基づく悪意に満ちた批判が多くあります。イエスの家族さえ「気が狂ったのだ」という言葉を受けて引き戻しに来たくらいです。私達もキリストを信じて生きるという事だけで誤解を受けることがしばしばあるかもしれません。
それ故世の中には様々な見方があるということを頭に入れて信仰の歩みをしていければと思います。ただ確実に言える事は多くの場合、キリスト信仰への誤解や偏見は人の無知や自己中心的な考え方から来ていることが多いのです。

○赦されない罪はないので安心を
先ほども申し上げた通り、赦されない罪とはイエス様が彼らに対し直接的に語られた言葉であります。私達に適用することではありません。私達には赦されない罪は一つもありません。主の前にへりくだり罪を悔い改めたなら罪は赦されます。そして正しい神との関係に入ります。もし皆さんに対して誰かが「あなたの罪は絶対赦されない」と脅しをかけてくる人がいたらそれはあなたを支配したいだけの話でありますのでそのような脅しには乗らないでください。

結び
イエスをメシヤと理解して信頼しよう。
イエス様はメシヤとして生まれ、神であり人としての歩みをされました。それ故聖霊の力によってさまざまな癒し、奇跡の業を通してご自身がメシヤであることを示されました。特に神の愛と恵みは後の40年間ユダヤの人々に注がれましたが多くの人々がイエスを否定しました。最終的に紀元70年にエルサレムは破壊され滅んでユダヤ人は離散の民となります。しかし選びの民であるユダヤ人に対して神の愛は変わらず注がれています。ローマ書9~11章には彼らの民族的な救いに与る事をパウロは記しています。又ゼカリヤ書12章にも終末時代に彼らがイエスをメシヤと信じる信仰に回復する事が描かれています。このイエスこそ聖霊によって様々な、しるしと癒しを行い、私たちの罪の為に死んで、葬られ、三日目によみがえり、今も生きておられるメシヤである事をもう一度確認して正しい理解のもとに信仰を深めてまいりましょう。