マルコの福音書(14)

2022年12月13日

2016年10月9日
聖書箇所:マルコ3:1~7
宣教題:「安息日にすること」

マルコ福音書14回目の学びになります。前回同様イエスとパリサイ人の安息日論争が続きます。パリサイ人達はいつもイエス様に言いがかりをつけ後を追いかけています。2章ではお腹が減ったイエスの弟子達を安息日に麦の穂を摘んで食べたら安息日にしてはいけない労働違反だと言って責め立てます。これに対しイエスは昔のダビデ王の例を引き合いに出して全く問題ないことを示されました。そして安息日の正しい理解を彼らに示します。今日は続けて3:1~6になります。また平行記事としてマタイ12:9~14 ルカ6:6~11がありますので参考にしてください。①パリサイ人の訴え1~2 ②イエスの御業3~5 ③パリサイ人の殺意6
1、パリサイ人のたくらみ1~2
①パリサイ人とはどのような人々か
彼らは一体どのような人たちか。パリサイの意味は「分離されたもの」です。パリサイ派とよばれイエス様の生まれる数百年前から活動していたユダヤ教の大きな勢力でした。その特徴はモーセ律法を厳格に守る事でイエスの時代には2万5千人位いたと言われています。その内2万人がエルサレムに住んでいたようであります。初めは敬虔な信仰の人々でしたが、年数が経つにつれてだんだんと形式的になり、モーセ律法を日常生活に適用していく中で非常に細かい分類して聖書が言っていないことまで決めていき一般民衆を支配していくようになります。イエスの時代には支配階級、金持ち階級でした。その彼らが大切にしていたのが、口伝律法と呼ばれ、伝えられた教えです。
この教えは聖書の愛の精神と全くかけ離れたもので、聖書とは似ても似つかぬものです。それが前回の安息日に麦の穂を摘んで食べたることは労働だと言われ安息日違反と責められた事です。

パリサイ人たちが待ち望んでいたメシヤ(救い主)は、やがてローマを武力でやっつけて自分たちを解放して国を再び繁栄させてくれるに違いないと思い込んでいました。彼らの頭にあったメシヤの姿はローマの圧政から自分たちを解放者メシヤの姿で、メシヤが自ら苦しみ、死に至るという別の側面は全く分かっていませんでした。故にイエスが真のメシヤ(救い主)かどうかを試す為に後を追いかけまわしますが、イエスは自分たちがイメージするメシヤ像とはかけ離れていたので追い込んでいくようになります。それがこの1~2節であります。
②彼らのたくらみ
この光景を頭に描いてみてください。安息日、今でいうと土曜日です。礼拝するために人々は会堂に集まります。でも笑顔で礼拝に集まる雰囲気はありません。ここに片手(右手)の萎えた人がいました。2節を見るとこの場面はパリサイ人たちが仕組んだ罠である事が感じられます。ということはわざと右手の萎えた人を連れてきて訴える口実を見つけようとしているのです。安息日であってもイエスは人を癒すという事は彼らにとっては織り込み済みでした。ですからこの場面は喜びと平安に満ちて礼拝を捧げるという雰囲気は全くないのです。イエスがこの人を癒したら即訴えて逮捕してもらうというピリピリした空気です。訴える為であったという言葉が物語っています。
2、イエスのみわざ 3~5
パリサイ人は信仰熱心に見える人でしたが、聖書の意図するところとは全く逆の道を歩んでいたので、イエスは反論します。あえて訴えられることを承知で、その人を真ん中に立たせて、パリサイ人たちに向かって、4節の言葉を述べます。ここを読む。彼らは黙ってしまう。イエスは悪に対して怒り彼らを見まわし、人間でもあるイエスの当然の感情です。そして、その心のかたくなさを嘆いて、右手の萎えた人に言います。手を伸ばしなさい。するとイエスの言葉によって右手がもとの長さに戻りました。これがイエス様の本当の癒しです。
3、パリサイ人の殺意6
彼らもまたイエスの癒しの業を目のあたりにして自分の願う事に反する事が起こるので、怒りまくり会堂を出ます。そして敵対する勢力ヘロデ党と手を結びます。これはあの有名なヘロデ大王の流れをくむグループです。ヘロデ党とはローマと仲良くなり自分たちの国の安泰を図ろうとする人々です。親ローマ派と言います。これと正反対の立場がパリサイ派です。彼らは支配者ローマ人が大嫌い。だから本来はヘロデ党とパリサイ人は水と油なのです。ところが共通の敵が見つかると仲良くなるのです。この辺が人間のあくどさです。この時以降彼らにとってイエスは邪魔者になり葬り去ろうと殺意を抱くようになります。そして最終的にはイエスの十字架の死に繋がっていきます。
適用
○現代のパリサイ人的な教えは
実はキリスト教会の中にも聖書の言わんとする事から離れて教えているものがあります。例えば
①十分の一献金は自発的にすればそれで良いのですが、これをしないと病気になる、家族が不幸になると教えたらパリサイ的キリスト教になってしまいます。聖書は律法的に厳守するよう教えていません。律法ではないので十分の二でも十分の三捧げてもよいのです。十分の一に満たなくても良いのです。要は、けちけちしないで喜んで心に決めたものを主にお返しするのが献金の心です。
②毎週熱心に礼拝に出席しない人はキリストの再臨の時に救いから洩れると教える人もいますがそんな事はありません。イエスを信じて救いが確かであれば生涯にわたり救いから洩れません。
③洗礼を受けないと救われないと思い込んでいる人もいます。人は信仰により恵みによってイエスを救い主と信じたら救われます。この救いの恵みを見える形で表すのが水のバプテスマ、洗礼です。
④小学校低学年の洗礼式は意味がないので、大人になってもう一度受け直さないと本物の洗礼とは言えないという人もいます。大丈夫。小学校低学年の洗礼式であっても信仰が明確なら本物です。
⑤講壇の宣教は聖霊の油注ぎを受けた牧師だけしかできないと教える人がいる。そうではなく訓練され謙遜な人であれば宣教できます。以上のような聖書の原則を無視した教えがパリサイ的キリスト教という宗教であり、これを当たり前にしているキリスト教会は地上から消えてなくなります。でもイエスを救い主と信じて、イエス様により頼んでいく本物のキリスト教会は広がります。

○人は神のかたちに造られた存在
今日は右手の萎えた人の癒しの話でしたが、実は私達にも数えきれない程の様々な欠陥があります。ある人は知的に足りない部分があります。ある人は脳に疾患があります。しかし、創造主はどのような人も「神のかたち」に造られました。神のかたちは、人だけが善悪を選び取り、この世界を治め、創造主なる神を理解し、礼拝する者として「神に似せて」造られた尊い存在です。誰に対しても人として生まれた人に対してこの様な思いを持つ必要があります。特に社会的弱者と言われる人に対して、存在そのものを認め、愛しておられるキリストの心をもって接する必要があります。存在するだけで尊いのです。このような聖書理解に基づいて社会的弱者の方と接するならば、税金を納めていないから価値がないとか、世の中に何の貢献もしていないからダメな人だという思いは出てきません。人は誰でも神のかたちに造られた存在で創造主はこの上なく愛しているのです。
結び
人の体は健康体であっても、少しずつ衰え、やがて機能が難しくなり、思うように体も動かなくなるのです。しかしそれで人間の価値が下がるのではありません。神の愛の対象なのです。
また、体が生まれながら不自由であっても、認知症であっても、さまざまな欠陥があっても、私たちはやがてキリストにあって栄光の体に変えられる希望があります。Ⅱコリント3:18