マルコの福音書(3)

2022年12月13日

2016年7月3日
聖書箇所:マルコ1:7~11 
宣教題:あなたはわたしの愛する子 

マルコの福音書3回目学びになります。マルコはこの福音書を通してイエス様の30歳から33歳までの歩み、十字架の死と復活の御業を簡潔、正確に記録しています。ここでもいきなりイエス様は登場するのではなく、まずバプテスマのヨハネが現れてイエスを紹介しています。ヨハネは自分が主役ではなく「荒野で叫ぶ者の声」でした。声は消えていく、フエードアウトするものです。そのように自分の存在は小さくなり、イエスこそ聖霊のバプテスマを授けてくださる偉大なお方、メシヤであると人々にイエスを紹介したのです。

○イエスのバプテスマ 9節
今日からメシヤであるイエスの登場です。大都市エルサレムで輝く姿をもって人々の前に現れたのかと思うとそうではありませんでした。華々しく登場していません。なんとイエスは30歳まで北部ガリラヤ地方田舎の村ナザレに住んでおり、そこで大工さんとして仕事をしていました。そこから南東に数十キロ離れたヨルダン川に来てヨハネからバプテスマを受けに来たのです。この時ヨハネはびっくりしています。そして自分こそイエス様からバプテスマを受けなければならないのと言って最初は断ろうとするのです。ヨハネからすれば当然の事ですね。イエスに罪はなく、罪人ではないから、自分から悔い改めのバプテスマを受けるなんておかしいではないかと考えたわけです。

しかし、イエスは「すべての正しいことを行うのは自分たちにふさわしい」と言ってヨハネからバプテスマを受けるのです。神の御心はすべて行おうとされたのです。イエスは他の人々と同じようにヨルダン川に入り、水の中に「ざぶん」と入るのです。バプテスマの意味は何か。そうです。一体化です。ヨハネが語る神の国のメッセージと一体化したのです。又、罪人と一体化して罪人の一人の様になったのです。これが、イエスが受けたバプテスマの意味ですので、悔い改めのバプテスマではありませんでした。そしてしばらく父なる神に祈っておられました。

○天からの承認 10節~11節
するとどうでしょう。すぐさま天が裂けて御霊(聖霊)が鳩の様に自分の上に下ってこられました。そして天から声がありました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしは、あなたを喜ぶ」というものでした。因みに私がバプテスマを受けた時には御霊が鳩の様にして下ってきませんでしたし、天からの声もありませんでした。皆さんの時はどうでしたか。水に入る行為そのものには神秘的な効力はありません。恵みによりキリストの救いを受けて聖霊によってキリストと一つにされたことを水で表すのが水のバプテスマの意味であります。

さて御霊が鳩のような形で降りてこられたのはどのような意味があるのでしょうか。
創世記1:2を開いてください。口語訳聖書をお読みします。地は形なく、空しく、闇が淵の表にあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。御霊は皆様よくご存じのように、三位一体の第三位格
人格を持つ神です。父、御子、(御霊、聖霊)の神と言います。この場面は母鳥が卵を抱いているように、神の霊が地をおおって抱いている姿をイメージしています。そこからユダヤ人が聖霊をイメージする鳥と言えば、カラスではなく、鳩が出てくるのです。鳩は平和、柔和、聖潔のシンボルと言われていますから。聖霊はそのような形でご自身を示されたのです。イエスはこの聖霊の働きによって地上に人として生まれ、メシヤとしてご自身を公に現わされました。
次は天からの声です(11節)イエスに対しての神の言葉、あなたは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。これはメシヤとして神から承認されている公の宣言です。イエス30歳の時であり、ここからキリストとして3年間の公の生涯が始まりました。

適用
○イエスに聖霊が下ったことの私たちとの関係
キリストに起こったことは私たちにも起きます。
実は私たちもイエスを救い主と信じた瞬間に聖霊を受けました。これは目に見えませんが聖霊によってキリストと一体となったことを表しています。キリストとつながったことですね。また前回も申し上げましたが普遍的な目に見えないキリストの体なる教会の一員になったという事でもあります。
今週も私たちが聖霊を受けて新しい命に繋がっている事を確認しましょう。これを御霊の内住と言います。非常に大きな出来事で、あなたの人生を根本から変える事であります。

○天からの声「あなたは、わたしの愛する子、わたしは、あなたを喜ぶ」
詩篇2:7 あなたは私の子
イザヤ42:1 わたしの心の喜ぶわたしの子
これは詩篇とイザヤ書に預言されているメシヤとしてイエスが神から承認されていることを公に宣言した言葉です。キリストこそ正真正銘の神の子であり、神の僕です。

実は私たちもイエス・キリストによって救いを受け神の子とされ、神の僕とされました。キリストにある私たちも同じ立場を頂いているのだという事を確認致しましょう。

結び
「あなたは、わたしの愛する子、わたしは、あなたを喜ぶ」と天からの声によって宣言されたキリスト公生涯のスタートは決して華々しいものではありませんでした。私たちの人生も決して華々しいスターのようではありません。しかし神は私たちに、聖霊を与え、同時に神の子供として神と人に仕える喜びを与えてくださいました。これをいつも覚えて主の前に歩んでまいりましょう。