マルコの福音書(2)

2022年12月13日

2016年6月26日
聖書箇所:マルコ1:7~8 
宣教題:私よりもさらに力のあるお方 

今日はマルコの福音書2回目になります。マルコ福音書を通して主イエスはどのような方か、またどのように生きたのかを、マルコが聞いていた視点から書かれています。またマルコ福音書は新約聖書の中でも比較的早い時期に書かれた書物です。簡潔、丁寧に書かれています。ゆっくり時間をかけて丁寧に学んでまいりましょう。また水曜日午前の聖書を読む会では創世記が始まりますので皆さん是非一緒に学びましょう。

さて、7節と8節はバプテスマのヨハネが主イエスを紹介している言葉です。短いですので分かりやすい箇所です。彼はのべ伝えて言った。イエスに対する宣言です。

1、私よりも更に力のあるお方が、後からおいでになります。7節
バプテスマのヨハネは自分より800年前に活躍した旧約を代表する預言者エリヤの再来かと思われる人物です。姿格好は独特ですし、神から預かった言葉を語る大胆に語った本物の預言者です。このヨハネこそ旧約最後の偉大な預言者だったのです。人々は救い主を待っておりましたので、このヨハネこそ、救い主、メシヤに違いないと思っていたほど魅力あふれる人物でした。
でも彼は、自分が荒野で叫ぶ者の声であると言う立場をいつもわきまえていました。声は消えるものですから救い主メシヤの道備えをするのが自分の役目であると確信していました。

私よりも更に力のあるお方とはイエス様の事であります。どれだけ力ある人物かというと、「私には、かがんでその方の靴の紐を解く値打ちもありません」と言うほどです。靴の紐とはサンダルを紐で縛るのですが、足は非常に汚れます。当時のユダヤ人社会では他人の靴ひもを縛る事は誰もせず、異邦人の奴隷がすると決まっていたようです。ユダヤ人同士ではどんなに師弟関係があったとしても弟子が主人の靴(サンダル)の紐を解くことだけはしなかったと言われています。そのことを引き合いに出して、バプテスマのヨハネはイエス様の前で、その異邦人がする靴の紐を解く行為さえも出来ない程、自分とイエス様とでは天と地の差がある偉大な方なのだと紹介しているのです。バプテスマのヨハネはこれほど正確にイエスを正しく理解した人であり、自分の立場をわきまえた実に謙遜な人でありました。

2、イエスこそ聖霊のバプテスマを授ける方 8節
ここでバプテスマという言葉が出てきます。直接的な意味は浸す、沐浴する、洗うと事です。彼はヨルダン川で人々にバプテスマを授けていました。と言うのは水の中に人を浸していました。
これは創造主の前に自分の心を整え、生き方を変え、方向転換して、水の中に入れてもらう行為です。これを悔い改めのバプテスマと言います。このバプテスマは形だけ受けても何の意味もありません。心の中を点検して生き方を変える決心をする人、悔い改めの実を結んだ人(別の言葉でいうと悔い改めと一体となった人)が受けるので悔い改めのバプテスマと言います。

一方イエス様が授けるバプテスマは何でしょうか。「聖霊のバプテスマを授ける」と述べています。ここだけ見てもバプテスマのヨハネはイエス様を正しい判断力を持って見ていたことが分かります。
この聖霊のバプテスマはイエスを救い主と信じた人が、目に見えませんが、イエス・キリストと一つになる事、一体とされることを「キリストによって聖霊のバプテスマを受ける」と言います。これは人の目で見る事は出来ませんがイエス様の新しい命がその人に入りますので生き方が変わってきます。別の言葉でいうとイエス様と全く同じ真理の御霊、聖霊が信じた人の心の中に住まわれますので、少しずつイエス様の性格に似てくるのです。

これが聖霊のバプテスマを受けるという事です。この聖霊のバプテスマを受けるのはイエス様を信じた時になされる一度限りの経験で、神から来る一方的な恵みです。そしてこの恵みを見える形で表すのが水のバプテスマであります。これは私たちが体験している事で、水のバプテスマを受けたら、救いを受けるとか、聖霊を受けるという事ではないのでくれぐれも誤解の無い様にお願いします。万が一、救いを受けていなかったのに、形だけ勢いでバプテスマを受けてしまった人がいるなら今ここで罪を悔い改めて、イエス様の十字架の御業を信じて本物の救いを受け、聖霊を受けて下さい。もし自分が怪しいなと思う人がいたら私にこっそり言ってくだされば大丈夫です。

適用 今日の話をあなたに適用するとどうなりますか。

1、バプテスマのヨハネは主イエスを見上げて生きていた。
 あなたも私も模範として生きるお方は決まっているのです。自分よりさらに力のある主イエスだけを見上げて生きよう。そしてこの主から力を受けて生かされようではありませんか。イエスを前にして靴の紐さえも解くことは出来ない小さな存在であるとのだと言う事を認め、ヨハネのように主イエスを見上げて生きようではありませんか。そして謙遜な人にされようではありませんか。

2、バプテスマのヨハネは自分の役割、使命に徹して生きていた。
彼の役割は人々に救い主イエスを示す事でした。自分は小さくなっていきます。彼は決して出しゃばったりする人ではありません。この世にあって自分の役割、使命は何かを自覚して行動する人でした。私たちはこの日本で、社会で、地域で、家庭で、教会で様々な役割や使命があるはずです。それが何かを理解して一日も早く天職(神から与えられた使命)を見つけてそれに生きましょう。どんな小さなことでも構いません。イエス様に祈って発見しましょう。発見したら実行しましょう。そうして主イエスから託されている自分の使命に生かされようではありませんか。

結び
イエスこそ私よりも優れた多いなる神の子救い主である事をもう一度確認致しましょう。次回からいよいよ30歳のイエス様が出てきます。ご期待ください。お祈り致しましょう。