ヨハネの黙示録(26)

2019年8月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録22:6~21 
説教題:見よ、わたしは直ぐに来る 
 

いよいよヨハネの黙示録は最後まで来ました。去年の10月14日からずっと学び続けてきましたが皆様はどのような感想を持ちましたか。あとで教えて下さい。
使徒ヨハネがパトモス島で囚人であった時、イエス・キリストの黙示を受けました。特に終末から再臨、千年王国、新天新地に至るまでの壮大なものでありました。黙示とはベールが取り除かれるという意味です。それがヨハネの黙示録です。良くわからない所が多い書物ですが基本的には字義通りに読んで解釈すると段々理解を深めてきたのではないかと思います。
大きく分けると1章ではイエス・キリストの黙示を受けた事、
2章から5章までが小アジアと呼ばれた地域にあった7つの教会への手紙、
6章から18章までは大患難時代7年、
19章、キリストの地上再臨とハルマゲドンの戦いによる勝利、
20章では千年間のキリストによる世界統治、千年王国。サタンの敗北、不信者の復活、そして白き御座の裁き、
21章から22章は、今の天地が過ぎ去り、新しい天と新しい地、聖なる都新しいエルサレムとして神の御許を出て天から下ってきます。その詳しい内容を3回に亘って学んできました。それが22章5節までです。
今日はいよいよ完結(エピローグ)という事になります。新旧約聖書は全部で66巻。旧約39巻、新約27巻です。その27巻の中で最後に書かれたのがヨハネの黙示録です。ヤコブの手紙が紀元50年前後に書かれ、ヨハネの黙示録は紀元90年代です。使徒ヨハネが高齢になってイエス・キリストの黙示を受けました。イエスが十字架に掛かって死に、葬られ、甦られて後60年後という事になります。今日はその最後の最後になります。
内容を調べると次のようになります。そしてこの箇所の中心はキリストの再臨です。しかも空中再臨について述べていますので今日はテーマを6・7中心に、再臨の話になります。他は来週。
区分だけ申し上げます。6~7再臨の希望 8~9ヨハネの礼拝 10~11封じるな 12報い 13~16永遠のキリスト 17招き 18~20警告 21祝祷

6~7 再臨の希望
6:黙示録は神がみ使いを通して預言している。その大本は父なる神なので真実、信頼できる言葉です。ヨハネたちの霊の神である主が、速やかに起こる事を僕たち、即ちヨハネ達に知らせる為、天のみ使いを遣わされました。
7:見よ、私はすぐにくる。この預言の内容に心を留めて生きる人が神の祝福を受けるのです。

※見よ、私はすぐにくる。⇒キリストがすぐに再臨される。皆さんご存知のように再臨には空中再臨と地上再臨があります。ここでは空中再臨を言っています(但しいつかは誰もわかりません。良くカルト教団の指導者が計算して何年、何月、何日にキリストの空中再臨があると預言しますがそれは全て偽りなので要注意です)
地上再臨の場合は反キリストが患難時代の半ばにエルサレム神殿で自分は神であると宣言してから3年半後ですから大体の時期は分かります。私は艱難期前携挙の信仰立場ですのでイエスは艱難時代前に空中に再臨してキリスト者を携挙(携え挙げる、英語でRapture。)すると信じています。
でも既にキリストが天にお帰りになって2千年たちました。人間の感覚では直ぐに来ていないのではと思います。2千年もたっているし。何故すぐなのかと。
でもここの直ぐには早急にという意味の直ぐではありません。神の時になったら「突然に」「予期しない時に」「思いがけない時に」という意味です。それ故空中再臨は地上再臨と違っていつかは誰も分かりません。父なる神だけがご存知です。今日かもしれない、明日かもしれないということです。初代教会は再臨を待ち望む信仰に熱心でしたので、信者が生き生きとしていました。
私達の信仰生活もいつイエスが空中再臨しても良いような生活をする必要があります。でも悲しいかな。多くの教会はキリストの再臨の学びはしません。空中再臨と地上再臨の違いもはっきり分かっていない人が多いのが現実です。イエス様が来られた時に日本の眠った信仰の教会を見て嘆くことでしょう。でも今回の黙示録を通して様々な角度から再臨について学べたので幸いです。

ここで一つ気を付ける事は再臨を待ち望む生活と言っても、仕事をしない生活や、家族、社会に対して無責任な生活でもOKと言っているのではありません。キリスト者はむしろ自分が住んでいるこの地域を愛し、繁栄の為に祈り、貢献する生活が聖書の勧める生き方です。

12:ここは文脈から見て罪人をその仕業に応じて裁くために帰ってくる事なので空中再臨の後の地上再臨について述べています。7年間患難時代の後に裁き主として全世界の人が見える形でキリストが戻ってくる再臨の事です。ハルマゲドンの戦いに勝利し、オリーブ山に立つ裁き主として再臨するイエスの事です。12後半の報いは、罪人に対する最終的な裁き、白き御座の裁きの事で黙示録20:11~15節に出てくる内容です。それ故ここは地上再臨の事です。

20:ここは空中再臨です。神の時が来たらすぐに来る。いつ主が来てもおかしくないのです。
20:後半 主イエスよ、来てください。これが有名な主よ、来てください:アラム語でマラナ・タという言葉です。Ⅰコリント16:22パウロも告白している。空中再臨を待ち望む信仰です。
以上ですが再臨を待ち望む言葉が出てきました。

適用
イエス・キリストの空中再臨を待ち望む信仰、これがパウロやヨハネの信仰であり、初代教会時代に生きた信仰者の生き方でありました。如何ですか。再臨信仰ではなく、救いを受ければそれで安心という今の我々の信仰とは質が違うように思いませんか?
この黙示録の学びを終えて、今こそ私達はこの地上にしっかり軸足を置きつつ、新約聖書時代のキリスト者が生きたような再臨を待ち望むような信仰に生かされようではありませんか。その生き方とはそれぞれがこの地上で生かされている人生を、主の恵みと信仰によって生きる事、頑張らないで生きる事です。そして、それぞれが人と比較せず自分の役割を自覚して神と隣人を愛する生活をすることです。非常にシンプルですね。

結び
来週もう一回やって結びにしたいと思います。