ヨハネの黙示録(25)

2019年7月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録22:1~5
説教題:聖なる都エルサレム③  

ヨハネの黙示録22章1節~5節を通して天の御国がどういうところかを学んで今回3回目になります。具体的な事がまとまった形で書かれているのはこの箇所だけなのでしっかり学んでいければと思います。また、
又ここは将来、私達が行くところなので尚更関心がありますね。そして他の人から天国はどのようなところですかと聞かれたら、自信をもって答えられれば幸いです。それではお読みします。天の御国、聖なる都エルサレム、新天新地の特徴を見ていきましょう。

1:命の水の川
水晶のように光る川、源流は神と小羊から出ていた。どこを流れているか、都の大通りの中央を2000キロにわたって流れている川です。この箇所から私達は新天新地に行っても水を飲むのだという事が分かります。しかもそれは命の水です。潤いのある所が天の御国ですね。

2:いのちの木
創世記2章9にもいのちの木は出てきます。
・この命の木から12種類の実がなる。毎月実がなる。私たちもこれを頂けるのです。天の御国ではダイエットを気にしないで食べる事が出来ますから安心してください。
実がどのようなものかも楽しみの一つですね。先日ある方から台湾マンゴーをプレゼントしてもらったのですが、今まで食べた物とは別次元のおいしさでした。それよりもおいしいかもしれません。しかも12種類なので商い楽しみがあります。
・太陽、月はありませんがここで毎月とありますので新天新地にも暦がある事が分かります。
・その木の葉は諸国の民を癒した。この箇所は天の御国でも人々に病気がありいのちの木の葉をつけていやされるのかと誤解しやすいのですが、そうではありません。元の言葉はセラペイアンという名詞です。癒したという動詞ではありません。英語のセラピーのもとになっている言葉で、日本語では治療、癒し、回復という意味があります。即ち病気にかからない様に癒しの力を持つのが命の木の葉である。それ故聖なる都エルサレムには病人がいないという意味です。私達は様々な病気に悩まされる必要はなくなります。

・それにしても12種類の実には興味がありますね。御国に移っても食べる楽しみがあるというのはうれしいですね。日本でおいしい果物は何でしょうか。どうぞ。はい。台湾のマンゴーこれは別次元の味、65才にして初めて味わいました。美里の梨ですか。岡山、山梨のモモですか。天の御国ではどのようなフルーツを毎月戴けるのでしょうか。楽しみです。

3:ここには呪われるものは何一つありません。呪いとは神の前に、不愉快な、不潔な、不快な、不純な、憎まれる、いやらしいという意味です。創世記3章で人が罪を犯して以来、初めて入ってきたものです。存在していた罪と死は一掃されて失われたエデンの園は完全に回復した事を示しています。
・しもべという言葉はあまり響きの良い言葉ではありません。
でもイスラエルにとって最高の称号である。神に仕える僕には自由と喜びに輝く存在である。私たちも一人一人は主の前にしもべとされて生かされている事は幸いです。
・ここにきて初めて、創世記3章で人間が呪われるべきものとなった状態から解放され、神が人を創造した本来の姿に回復するのです。それ故次の言葉が4節で出てきます。読む。

4:神の御顔を仰ぎ見る。
創世記3章8節で罪を犯したアダムとエバは主なる神の御声を聞いてどうしましたか、「はい、ここにいます」と答えたのですか。そうではありません。神である主の御顔をさけて、園の木の間に実を隠したのです。でも黙示録22章の聖なる都エルサレムでは「いのちの書」に名前が書き記された人々は「神の御顔を仰ぎ見て」います。ここに完全な罪の回復の姿が見て取れます

私たちは今、まだ地上の生涯を歩んでいますが、いつも「神の御顔を仰ぎ見て」生きる歩みをしているでしょうか。そうでもない時があります。実に、神の御顔を仰ぎ見て生きる事は神との永遠の友情の中に生きる事を意味しています。この生き方が私たちにとって一番幸せな事なのです。

また彼らの額には神の名がついている。これは額に本庄とか、児玉郡と刻印を押されるというよりも、神の所有とされているという印の事を言っています。

5:聖なる都エルサレムについての特徴、最後になりますが:夜がない。神ご自身が光なるお方なので太陽も月もいらない。こうして21章の夜がないというところに戻るのです。

適用
今日で21章10節~22章5節に渡る新しい天と新しい地、聖なる都エルサレム、普通に私達が天国とか天の御国というところ全て学びました。具体的に理解を深められた事と思いますが、いかがでしょうか。イエス・キリストの救いを受けている人は全員ここに移されます。何という希望が待っているのではないでしょうか。それ故希望をもって今日を恵みの中で歩ませていただきましょう。

結び
最後に特に覚えておきたいことは人間存在の目的は神のみ顔を仰ぎ見る。
これこそ我々が目指す究極的な姿です。私達は週の初めに礼拝をもってスタートしますが、牧師の宣教の言葉が中心でないことがお分かりになったと思います。
実にこの礼拝の中心は全てのプログラムを通して神の御顔を仰ぎ見る。目には見えませんが顔と顔を合わせて神・イエスキリストと交わることです。別の言葉でいうと神との友情の中に生きること、これこそ神の御顔を仰ぎ見る事です。そして私達の最高の祝福であり、生きる目的、存在する目的でもあるのです。そうしたらあなたの具体的な生き方、神を愛し、隣人を愛する生き方にもっと広がりが出てきます。