ヨハネの黙示録(8)

2018年12月30日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2:12~17
説教題:ペルガモの教会のみ使いに書き送れ

おはようございます。今年最後の礼拝となりましたが主の導きと守りを感謝します。
先週の礼拝宣教の中で一つ訂正があります。イエスが布に包まれる時に、ぐるぐる巻きにした時に手を上にと言いましたが、手を下に伸ばした形で布にしばられました。ここを訂正しておきます。
写真がありますのでご覧ください。

それでは学んでいきましょう。
12:宛先 ペルガモとは結婚したという意味だそうです。位置はスミルナから北に80キロ、裕福だが、堕落した町、当然ギリシャ神話の神殿があり、大規模図書館があることで有名でした。蔵書が20万冊あったと言われています。そのような町でペルガモ教会の人々は信仰の歩みをしていました。キリストの紹介:ここでは鋭い、両刃の剣を持つ方が言われる。神の言葉を持つ。

13:称賛 サタンの王座がある。この町にはギリシャ神話の神々を祭る神殿があり、クリスチャンたちも多かれ少なかれ、ローマの皇帝礼拝を強いられたりして、その影響を受けて信仰生活をしていま下。日本でも昭和20年8月迄は同じでした。それとは違いますが年末年始になると多くの人々は普通に偶像の神に頭を下げて礼拝します。この当時ペルガモにあった神殿の中にサタン、悪魔と呼ばれる神の敵対勢力が根城を張っていて、あらゆる悪の行為を人々にさせていました。サタンはどこにでもいるわけではないので、この当時ペルガモが拠点だったのです。今はどこがサタンの拠点なのかはわかりません。当然ペルガモのキリスト者は多くの誘惑や信仰の戦いがあったのです。この様にトータル的で見ればこの町でキリスト者がキリスト信仰の歩みをするのには難しい町でした。同じように日本でも偶像信を礼拝することで成り立っている町がいくつかあります。

しかしアンテパスは最後までキリストに対する信仰を捨てませんでした。即ち皇帝礼拝をしなかったということです。彼の信仰について少し考えてみよう。アンテパスは自分の頑張りや力で信仰を守りとおしたのでしょうか?そうではありませんね。イエスに対する信頼からくる聖霊の力によって困難を乗り越え信仰を守り通すことが出来たのです。私たちも同じように適用できます。

14~15:イエスの非難、叱責の言葉
しかし彼等にも弱さがありましたのでイエスから非難されています。
バラムは:民数記22章~25章に出てくる人で偽預言者です。この人物がエジプトから脱出してカナンの地に向かう途中で、モアブの女性たちを使ってイスラエル人を誘惑して性的罪を犯させました。それと同じようにペルガモ教会員の内に偶像礼拝と結びつかせて不品行をさせる人がいたのです。またニコライ(勝利するもの)派の教えを奉じている。これはここの文脈から見ると同じような、キリスト者の自由をはき違えて放縦な生活をしていた人々と考えられています。またもう一つ教会内で指導者と一般信徒を区別する階級制制度を取り入れたとも言われています。指導者はこのような間違いをしやすいのです。当然教会には賜物の違いによる働きの違い、責任の違いはありますがしかし階級の違いは、上下関係は有りませんので間違わないようにして下さい。会社ではありませんので。
16:悔い改めのすすめ
彼らの行為をイエス様は嫌われたので悔い改める様に言いました。悔い改めとは方向転換です。人間中心生活、考え、あるいは堕落的な生活から方向転換しなさいと言うことです。そうしないならキリストの裁きが始まります。
17:約束
聴く耳のある者は聖霊が言われることを良く聞きなさい:マナとは天から降ってくるパンのことで毎日毎日必要に応じて備えられました。まさしくキリストの雛型です。ですからここでは悔い改めてキリストに信頼する者はキリストとの親しい交わりが回復する。よってますます恵みと主の力を受けて歩ませていただく。そのような意味があります。白い石とは競技会で勝利したしるし、勝ったものが宴げに参加できる印。これもまた神との交わりが回復する印であります。

適用
○誘惑が多い世の中にあって
ペルガモ教会の失敗はこの世の誘惑をそのまま受けて妥協してしまったことです。様々なこの世の考えや人間の弱さを克服しきれませんでした。私達の日常生活でも同じような事があります。キリスト教文化が根付いていないので偶像的習慣が多くある中で私達は日本人で生かされているのです。又自由の名のもとに人を虜にする性的刺激するものが満ちているのです。
ではそのような中でどう生きるか?自分に与えられた私達が使命を自覚し、神と人の為に生きる事が出来るか、又、イエス様から離れさせようとするものに対して私たちはどう向き合えばよいか?
①私たちに語りかけて下さるイエス様の声なき声を聞こう。祈り、みことば、静かな時間の中で。
②イエス様ならどのような行動をとるだろうか。自分たちも具体的に行動していく中で導かれる。
③2番目と似ていますが、自分がやろうとしている事はイエス様が喜ばれるだろうか。それとも悲しまれるだろうか?
以上のようなことを思いながら考え祈りつつおおらかに生きていこうではありませんか。
○苦難の意味は
私達は神の恵みを沢山受けています。今年はどのような恵みを受けましたか?でも恵みの内には良い事ばかりとは限りません。歓迎したくないこともあります。普通のことです。生きていればよい時もあり、悲しみや苦しみや試練の時もあります。人間関係で悩み、自分の欠点で悩み、健康のことで悩み、経済不安で悩みます。でもそれは何故か?皆さんは答えをご存知ですね。私達が神によって訓練され、練り清められ、キリストの恵みや素晴らしい価値を体で覚え、誤りから守られるためなのです。

そうでなければ私達は直ぐ高慢になって神を侮り、人を侮るものとなります。それ故、苦しい時こそ嘆いて神や人を呪うのではなく、主を見上げて生きるのです。人に対しては謙虚に関わるのです。そうするならば主イエスは私達に対して最善を成してくれている事が分かります。
結び
私たちもペルガモ教会の兄弟姉妹達の様に良い点も欠点もあります。イエス様から褒められるところもあれば、悔い改めを迫られるところもあります。
今日自分たちに適用した時に良い点はどのようなところでしょうか。
悔い改める(方向転換する)ところはどのような事でしょうか。
2018年を終えるにあたってもう一度振り返りつつ、弱さを認めつつ、自己吟味しつつ、厳しい所に置かれた時にも、良い状態に置かれた時にも、私たちの全てをご存じであり、そのうえで受け止めて下さるイエスを見上げてイエスと共に歩んでいこうではありませんか。アーメンですか。