コリント人への手紙第一(52)

2021年6月20日
聖書箇所:Ⅰコリント16:19~24
説教題:主よ、来て下さい マラナタ 

おはようございます。ネット配信をご覧の皆様もおはようございます。今日もコロナ禍の中、工夫して集まる事が出来る恵みを感謝します。ライブ配信準備もありがとうございます。

2019年8月18日から始めたコリント人への手紙第一は今日で終わります。途中クリスマスメッセージ、聖霊の学びで、半年くらい中断しましたが、ここまでたどり着き感謝です。キリスト者の生き方に関する中身がこれほど詰まっている箇所を学べたことは大きな恵みです。教会内の分裂分派問題、性の乱れ、結婚、偶像の関わり方、礼拝の秩序、御霊の賜物、福音、終末における救いの完成、献金。全てが現代教会に適用出来て大きな課題です。初めての挑戦でしたが教会生活全般について学べたと思います。又、忍耐をもって共に学んでくださった皆様に心から感謝します。

さて、今日は最後の挨拶のところ16章19節~24節から学びます。
●19:アクラとプリスカ夫妻について
・アジアの諸教会がよろしくと言っています。アジアはローマから見て東と言うことで、今のトルコに西部の広い地域をさしています。中心都市がエペソです。この地方にはパウロたちの伝道によって複数の教会が生まれました。教会と言っても専用の会堂がある訳ではなく、比較的裕福な人の家の大広間に集まって礼拝する形です。家に在る教会と呼ばれていました。

・アクラとプリスカは既にキリスト者になっていたユダヤ人夫婦ですが新約聖書にたびたび名前が出てきます。最初は使徒の働き18章、パウロの第二次伝道旅行の時で、彼らはローマに住んでいましたが、退去命令によって追放された時にコリントでパウロと出会いますが、パウロの方から彼らを訪ねて一緒に同業者として仕事をし、彼らはパウロと共に主の働きをしていきます。

・この夫婦は賜物豊かで、人間的にも、信仰的にもバランスの取れた人たちです。伝道者アポロに正しく福音を伝え信仰に導いたのは彼等です。彼らはこの後、長きに亘り、パウロの協力者として働きを共にするのです。この時点でもパウロの近くにいたと思われます。そして自分たちの家を開放し家の教会をしていました。彼等もまたパウロと同じように心からコリント教会を心配して回復を祈っていたのです。

・彼らから学ぶ事は何か?それは、いつでもどこでも自分が置かれたところで天幕造りの良い仕事をしながら忠実に主に仕え、パウロを助けたことです。自分たちも家の教会を開いて伝道していたのですが、一国一城の主になって内に籠るのではなく、常に外に向かって他の教会やクリスチャンたちとも交流して神の家族の一員として共に歩んでいます。この生き方は私達の模範です。

・このように教会を支えるのは牧師や伝道者だけではありません。彼らのような忠実な信仰者こそ教会の宝であり、必要な人材です。何事も牧師任せの教会にならず、自分に出来ることを、自発的に行動する。そしてよく聖書を学ぶ。こういう教会は強いですね。私達も目指したいと思います。
●20:挨拶
・パウロの周りにいる教会の指導者たちがよろしくと言う事は、コリント教会の人々は幸せだと思います。教会内がいつもごたごたしていると、他の教会は愛層をつかし、そっぽを向いてしまうのではないでしょうか?でも彼らは逆にコリント教会を心配して祈っていたのです。

・聖なる口づけによる挨拶は、心を開き、双方が相手を受け入れる事によって出来るものです。
パウロは互いに挨拶をかわしなさいと命じていますが、この姿勢は大切です。日本では聖なる口づけの習慣はありませんが、言葉による挨拶、お辞儀や握手があります。ハグはまだ少数ですかね。でもこちらから心を開いてあいさつすると、相手も心を開きますので良い関係を築く一歩になります。私達ももう一度挨拶の重要性を見直したいと思います。
●21:ここからパウロの自筆になります。
・16:20までは口述筆記と言いまして書記さんがパウロの語る言葉を書き記す方法で手紙が書かれました。でも20節からはパウロの自筆に変わります。21節~24節まで。自筆なので彼の文書であるという証拠になります。以下4つの勧めがあります。
●22:主イエスを愛する
①主イエスを愛さない者は呪われよ。のろわれよとは「神から見捨てられるが良い」という意味です。これは非常に厳しい言葉。様々な混乱が起きた教会なので、もう一度コリント教会に対し警告しておく必要がありました。それはイエスを愛する重要性です。イエスに信頼して祈り、より頼んで生活し、イエスの心を自分の心として生きようとする姿勢です。具体的には神を愛し、人を愛することです。コリント教会に対するパウロの警告故にこのような厳しい言葉となりました。

②主よ、来てください。
ここだけアラム語でマラナタ。元々ユダヤの言葉で、「主よ、来てください」という意味です。キリスト教会がエルサレムで始まった時から言われていた言葉のようです。当時のキリスト教会はイエスが天に帰られた時からすぐに、自分たちが生きているうちに再臨すると信じていたのです。
何故か?キリストの再臨こそが救いの最終ゴールで、目標と言う事をよく理解していました。今の時代キリストの再臨を受け止めて生きる信仰の生き方ができているか、問われています。

③23:主イエスの恵み
礼拝が祝祷で閉じられるように、この手紙も主イエスの恵みが共にあります様にと言う言葉で閉じられます。全てが主イエスの恵みと言う考え方が底辺に在ったと思います。恵みの定義は「相応しくない者に与えられる神からのよきもの」恵みによって私達は生かされています。そして、この恵みの中で生きるのが私達の原点です。くれぐれも自分の頑張りで生きようとしないでください。

④24:私の愛
最後は、イエスから受けた愛を自分のものとして受け、隣人愛につなげていく。キリストの愛を受けて、自分も主を愛し、隣人を愛する。これがキリスト者の生き方です。
●結論
今まで学んだ事はほとんど現代の教会に適用できるので、この原則をことあるごとに自分たちの事として適用してまいりましょう。その為にも聖書に親しみ、聖書的キリスト教会を共に建て上げてまいりましょう。そして救いの完成である再臨を待ち望み、マラナタ、主よ、来てくださいと告白できれば幸いです。