コリント人への手紙第一(36)

2022年12月4日

2021年2月28日
聖書箇所:Ⅰコリント12:12~27
説教題:ひとつ、からだなる教会

おはようございます。ライブ配信は準備OKですか。はい、ありがとうございます。という訳でインターネットを通して礼拝をささげている皆さんおはようございます。お元気でしたか?今日も共に聖書から学び良い一週間となります様に。聖書箇所は1コリント12:12~27。

前回から御霊の賜物について学んでおりますが、これが自分に与えられている賜物かなと思われるものはありましたか?例えば、28節:援助の賜物とか、霊を見分けるとか、癒しの賜物とか。いかがでしょう。癒しの賜物は人の上に手を置いて祈ると病気が癒されるというものばかりではなく、あなたと話していると、心が軽くなる。あるいは元気になるという方がいるかもしれません。そういう人は、癒しの賜物が受けているのかもしれません。

また御霊の賜物は、この箇所意外に、Ⅰコリント12:28~30、ローマ12:6~8、エペソ4:7~12、Ⅰペテロ4:10~12にも種類がありますので、自分に与えられているかもと思われるものを調べて見るのも良いのではないでしょうか。

12:さて12節からですが、教会は一つキリストの体と言う事が書かれています。この地上の教会に様々な教派や教団がありますが、それは別ものではなく、本質的に教会はキリストの体であり、一つです。かしらはキリストであり、キリストがすべてを支配しています。

13:教会はユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人、国や民族、それぞれの立場に関係なく一つキリストの体で有ります。勿論この手紙が書かれた2千年後の今も教会は変わりなく一つキリストの体です。その根拠は、キリストを信じた人は、一つの御霊なる神によって、キリストとバプテスマされたからです。即ちキリストに結ばれたということです。目に見えませんが、私達も聖霊によってキリストに結ばれ一つ体の一員に加えられ、キリストから日々いのちを受けている存在です。

それを、ここで「バプテスマを受けた」という言い方をしています。「そして皆、一つの御霊を飲んだ」イエス・キリストを救い主と信じた人は一度限りの経験として確かに聖霊を受け、御霊が内住したと言うことで私達も同じ経験をしています。

14~20:キリストの体は多くの部分(これは私達)から成り立ち、それぞれに賜物が与えられています。にもかかわらず、中には劣等感や弱さに心が沈んでしまう人がいるのです。自分は他の人のような優れた賜物が無い駄目なクリスチャンだ。自分は教会の一員としての価値が無い、相応しくないと思う人もいたのです。それが15節と16節の言葉です。足や耳の部分の人が他の人と比較して、勝手に落ち込み「自分はキリストの体に属さない」と考えてしまうのです。ここまで行くと辛いですね。でもこういう事って今の時代でも結構ありませんか?自分を悲劇の主人公にしていることは時々ありますね。
18節:でもパウロは「そうではないよ、神はみこころのままに、それぞれに相応しい部分を備えるのだ」と言い切ります。要は、皆賜物は違うけれども、みな大切と言うことですね。※劣等感をお持ちの皆さん、パウロの説得はいかがでしょうか。安心しましたか?

21~24:ここは高慢な人に対しての言葉、コリント教会の信者の中には異言こそ神が与えた最高の賜物であると誇る人がいたようです。高慢な信徒ですね。目立つ賜物を誇り、自分が霊的に優れた信者であると、皆に求めてもらおうとする信者です。「あなた方はいらない」とは賜物が無い弱い人は教会形成の邪魔だからいらないという訳ですね。これは教会の交わりを壊しますね。

では、いらないと言われる人はどのような人なのでしょうか?
例えば能力的に低い人、経済力が無い人、何も奉仕ができない人を、高慢な人たちは「いらない」と言っています。このタイプの信者が多くいるキリスト教会はイエスの心から程遠い群れです。

22:続いてパウロは反論します。他より弱く見える部分が、かえって無くてはならない存在なのだと。この論理は、世の中的には、「強いものが勝つ」事が普通なのであり得ないことです。でもキリストの体なる教会は、キリストの性質と同じ方向を常に目指しているので、弱い人こそ、なくてはならない存在となります。弱い人は大切と言われると安心しますね。

25:弱い部分がかえって無くてはならない存在、その理由がここに書かれています。配慮する。
弱さを持ちつつも、お互い、相互に関心を持ち、こころを配る、思いやるようになることです。
地上の教会は発展途上で、欠けだらけなので一気に高いレベルに到達できませんが、私達一人一人が主によって信仰的にも人間的にも成長させてもらい、聖霊によってあるべき姿に近づいて行こうではありませんか。

配慮し合うには、それぞれが置かれた立場で、22節や26節の思いにされる必要があります。これを、牧師、役員に自分がやってもらうことだけを期待して求めてもだめです。牧師が自分の期待に応えてくれないと文句を言う人がいますが、お互い配慮し合うことが成長のポイントですね。

26:勧め。一人の人が苦しめば、自分達も同じように苦しむ。思いやり。これが配慮し合うことです。皆さん、間違っても兄弟姉妹が苦しんでいるとき「ざまあみろ」と言ってはなりませんよ。教会はキリストの体で一つ、また、神の家族ですから。

逆に一人の人が、尊ばれれば、共に喜ぶ。ここでも、兄弟姉妹が人から評価され、尊ばれた時に妬んで苦虫つぶした顔にならないでください。共に喜ぶ。これがキリストの体である教会の一員としての生き方、神の家族として本来の姿です。これこそ生きた信仰ですね。

結論
27:私達はキリストの代理人で、キリストの看板を背負っています。と言う事は、キリストと同じ性質を持っていることになります。例えば、隣人が私達を見た時「何かこの人には自分にない何かがあるなあ」感じるような人格に成長させてもらうことですね。この原動力は聖霊の導きや働きにより、性格がイエスに似てくる、それこそが「あなた方はキリストの体であり、一人ひとりはその部分」と言う教会の本質です。

結び
私達はこのような教会の姿に近づいているでしょうか。まだまだでしょうか。ぜひ、聖霊によって励まされて、聖書が示すキリストの体としての教会を目指して進んでまいりましょう。