コリント人への手紙第一(34)

2021年2月14日
聖書箇所:Ⅰコリント11:27~34
説教題:みからだをわきまえて  

おはようございます。昨夜の地震大きかったですが大丈夫でしたか。宮城県、福島県での被害が最小限で収まります様に祈ります。
さて今日の礼拝もライブ配信されます。先週は上手にできませんでしたが今日は大丈夫でしょうか?OKですか。はいありがとうございます。という訳でインターネット礼拝している皆さん、お元気でしたか?共に聖書から学んでまいりましょう。
前回は主の晩餐の意味や正しい仕方について、また教会に貧富の差を持ち込んではならないことを学びました。今日は27節、したがってと有りますので主の晩餐のまとめの部分になります。

27:主の晩餐はキリストが私の罪の身代わりとして死なれた事を覚えるものです。パンはキリストの体、ぶどう酒はキリストが流された血潮を表し、私達はこれを飲むたびにキリストの前に、へりくだり、自分の罪を悔改め、十字架の死を思い起こし記念するものです。

 ところで、「相応しい」と言う言葉は別の言い方で「検証する、調べる」と言う意味があります。自分自身を吟味するということになります。例えば、イエスは私の罪のため体が裂かれ、血を流し、死んで葬られ、三日目に復活したと信じているか。そして罪を自覚し、弱さを認め、神に立ち返る悔改めの心を持っているか。それらをもう一度、吟味し、検証するが相応しいという言葉です。
自分は信仰深く、イエス様に忠実だから相応しい信仰者であるということでは全くないのです。

しかし、多くのコリント教会信徒は「ふさわしく」ありませんでした。金持ちが貧しい人を顧みず、夕ご飯を食べ始め、愛さん会と主の晩餐の区別が無く秩序が乱れていました。したがって、コリント教会での主の晩餐式のやり方は、主イエスの前に「ふさわしい」とは言えなかったのです。結果的にキリストの裂かれたからだと、流された血潮の意味が正しく伝わらず、主の体と血に対して罪を犯すことになります。

具体的には、貧富の差を教会内に持ち込み、分派争いや偶像礼拝がはびこるようになりました。それが主のからだと血に対して罪を犯すことになります。相応しい仕方で執り行っていれば自分が我先に食べたり飲んだりする事ができなくなります。

一つ付け加えますが、以前の聖書では「ふさわしくないままで」と訳されていたので、ここをそのまま読んで自分は罪ばかり犯している、駄目なクリスチャンなので聖餐式にはあずかれないという人がいました。真面目な方が多いですね。でも今回は、「相応しい仕方で」と訳されています。やり方が良くないということで誤解する人が少なくなっていると思います。

28:聖餐にあずかる時、即ちパンを食べ、ぶどう酒を飲むとき、「だれでも自分自身を吟味してそのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」と勧めています。私達が主の前で自己吟味したら、自分は素晴らしい信仰者であると断言できる人は誰かいますか?いないと思います。そうではなく自己吟味して合格した人だけが聖餐に与るべきだと言っていません。

ここは、その逆で主の前に自分の愚かさ、罪深さ、弱さを思い知らされる人間であることを認め、私は聖餐を受けるに値しない愚か者で、イエス以外に救いはありません。そのように自分を吟味してパンを食べ、ぶどう酒を飲むのです。

29~32:ここは27節の続きです。みからだをわきまえないで食べると裁きを受ける、みからだとは、勿論イエス様の裂かれたからだのことで、主イエスの言葉を受け、聖霊によってキリストの体としてパンとぶどう酒にあずかり、十字架のみわざを思い起こし記念する。キリスト者の集まりの食事、愛餐会と主の晩餐の食事を区別しなければなりません。
但し、聖餐式のパンはどこまでもパンのままで有り、ぶどうジュースはどこまでも、ぶどうジュースのままです。キリストのからだと血に変化することはありません。
 
コリント教会のように、主の晩餐を軽んじると、自分自身に裁きを下すとあるように神は裁きを下しお方です。それが30節で、弱いもの、病人が多く、死んだ者もかなりいる。これはいつの時代にも起こので、病人が多く、死人が続けて出ると=神の裁きということではありません。
パウロがここで述べているのは当時のコリント教会で、主イエスが定めた聖餐式が秩序をもって執り行われない結果として神の裁きを受ける。具体的には弱い者や病人が多く出て、死んだものがかなりいると言うことです。神の裁きが直接介入としてありました。

しかし31節のように聖餐式が秩序をもって執り行なわれ、主が定められた礼典(サクラメント)として行うなら主の恵みを益々味わうことになります。勿論、裁かれる事は有りませんのでご安心ください。

32:この裁きはこの世と共に罪に定められるのではなく、主の懲らしめの裁きで、主の愛から出ているものです。主がなさる業はどこまでも愛から出ている、これが私達と違う点です。
33~34:結論部分 勧め
・愛餐会(食事)と主の晩餐会は、それぞれが互いに時間を決め秩序をもって行いなさい。そして主の晩餐で食べるパンとぶどう酒はキリストの体、流された血潮として主イエスの十字架のみわざを思い起こし、記念しなさい。
・当時教会の礼拝は通常日曜日の夜、仕事が終わった後に持たれていたので、空腹な人もいました。その時は各自家で食事を済ましてから集まるように勧めています。秩序をもって行うなら神が裁くことはありません。
適用
コリント教会の「主の晩餐礼拝」の姿から学びましたが、コリント教会で行われていた事は、
私達の教会でも起こり得ます。ぜひ自分たちも、礼拝の在り方、教会は何のために存在しているのか、教会の使命は何か?キリスト者の生き方を、もう一度聖書からコリント教会のような間違いを繰り返さないように見直して主に喜ばれる教会形成を目指して歩んでまいりましょう。
結び
今日も「主のみからだをわきまえて」礼拝のたびに主の前にへりくだって心静まり、主イエスの十字架の御業、私のために体を裂き、血が流された事を覚える。主が信じる者に救いの確かさを確認して、今週も歩んでまいりましょう。
来週から12章に入り、御霊の賜物について学びます。主に期待しましょう。