コリント人への手紙第一(32)

2022年12月4日

2021年1月31日
聖書箇所:Ⅰコリント11:17~22
説教題:主の晩餐の秩序

おはようございます。今日も礼拝の恵みにあずかり感謝します。またライブ配信で礼拝をささげている皆さん、お元気でしたか?ご一緒にみことばから学んでまいりましょう。

さて、先週から11章に入り礼拝における女性の被り物の習慣から創造の秩序、男と女の違い、礼拝の在り方についてキリスト者の生き方を考えました。特に神の前には、男も女も関係なく、ただ神の栄光だけが現わされる、これがキリスト者の生き方の基本です。
又、女性も礼拝の時、祈りやみ言葉の解き明かしが出来ることも学びました。但し、その時、男の栄光を現さない為に女が被り物をしたのです。何故なら、神の栄光だけが現わされる。それが礼拝だからです。

今日は17節からです。コリント教会の礼拝の姿からパウロが命じたことを学んでまいりましょう。ここを学ぶ上で理解しておきたいことを申し上げます。当時は週の初めの日の夜、礼拝式が行われていたのが多いようです。勿論、今のように専用の会堂を持つことなく、有力者宅を集会所として使っていました。日本語で教会と訳されているので誤解しやすいのですが、教会とは、建物の事ではなく、イエスを救い主(キリスト)と信じた人たちの群れと言う意味です。

そして礼拝はイエスの復活を記念し、週の初めの日(今でいうところの日曜日)に持たれましたが、まだこの時代は休日になっていませんので、人々は昼間仕事をした後、集まり、共に夕食を持ち寄っていました。キリスト者が共に集まって食べる事を愛餐会と言います。主が共にいてくださるように祝福を祈りつつ持たれるものです。食後に礼拝の中で主の晩餐が持たれました。イエス様と弟子達の最後の晩餐が起源で、イエスの十字架の死と復活の御業を、パンとぶどう酒を通しておぼえるものです。パンはキリストの裂かれたからだを表し、ぶどう酒はキリストの血を表しています。聖なる晩餐を略して聖餐式と言われます。このように初代教会においては愛餐会と主の晩餐が一緒行われていたのです。これを踏まえたうえで今日の聖書箇所を学んでまいりましょう。

●集まりが益にならない(17節)
パウロは2節でコリント教会の信徒をほめています。彼らが使徒達の教えを堅く守っていたからです。しかし、次のテーマになるとパウロは彼等をほめていません。何故か?礼拝の集まりが信者にとって益にならず、かえって害になっていた。プラスにならず、マイナスだというのです。
皆さんはいかがですか?礼拝に出席して自宅に帰る時に平安や喜び、又今週も主と共に歩もうという気持ちにされますか?それとも今日は礼拝に来ない方が良かったと思うことの方が多いですか?彼らは礼拝でガッカリして家に帰る人が多かったのです。ここまで来ると教会の体を成していません。でも現実にこのような教会は日本にもあります。説教者が聖書の言わんとするメッセージを語らない教会では、うなだれて帰ることがあります。又、牧師、信徒同士が正義を主張し合って争いが多いと集まりは益になりません。

●分裂、分派問題(18~19節)
集まりが益にならず、害になっている原因は分裂、分派問題でしたが、これは今に始まったことではなく、以前からその傾向がありました。1章で「私はパウロにつくとか、私はペテロ、私はアポロにつく」という分裂、分派問題です。でも、ここでは金持ちと貧しい人の構図になります。
●主の晩餐(20~21節)
いつ、このような分裂、分派が顕著に表れたか、それは礼拝における主の晩餐式、別の言葉で聖餐式の時でした。
主の晩餐式の主催者は主イエス様が私達を招いてくださっています。主の招きを受けて主の晩餐にあずかる事を忘れてはなりません。これは礼拝の中で最も大切な儀式であり、皆が持ち寄って愛餐の食事をした後、パンが裂かれ、ぶどう酒が飲まれます。キリストの体と血にあずかり、キリストと一つ体にされていることを覚え、兄弟姉妹は一つである事を確認します。私達の罪の身代わりに主イエスが十字架に掛かって、死んでくださった事を覚え、パンとぶどう酒を飲んで主の救いのみわざを覚える恵みの時であります。

この主の晩餐(聖餐式)は秩序をもって行われるものですが、21節に在ります様に彼らの礼拝は秩序をもって行われず、混乱していました。貧しい人は、夕方まで働き、仕事を終えた後の夕方礼拝のために集まります。当然、食事の準備ができず、お腹を空かせて礼拝に臨んでいたのです。でも礼拝に駆け付けると、そこには、お金持ちの信者たちが、家で作ってきた食事をわれ先にと食べはじめ、主の晩餐の為に用意したぶどう酒を飲んで酔っ払い人もいる始末でした。彼らが貧しい人の事を考えなかったのです。こうなると、ただの飲食の場であり、礼拝と言えまません。主の恵みを感謝し、主に栄光をお返することは出来ません。

●神の教会の教会を軽んじるのか(22節)
教会とはギリシャ語でエクレシヤ、神に呼び集められた者たちの群れと言う意味です。所有者は誰でしょうか?そうです。キリスト、神が所有者です。何故か?私達はイエス・キリストの十字架のみわざによって贖いだされた、即ち買い取られたのだからです。買い取られたのだから、買い取ってくださった神のもの、だから神の教会とパウロは言うのです。
そして信者はキリストと命で結ばれ、一つキリストの体に連なる存在です。本庄教会も同じで支配者は神、イエス様ですから主の御心をいつも求めて生きる、これが神の教会の姿です。

彼らはキリストに在って一つ体であるという思いに欠けていたので貧しい人をないがしろにして、恥ずかしい思いをさせたのです。これが神の教会を軽んじることで大きな罪になります。こうなるとキリスト教会とは言えないのでパウロはこの事ではあなた方をほめないと言ったのです。

●適用
日本では身分による差別は少ないですが、経済差別は大きくなっています。コリントと似ていますね。もし本庄キリスト教会が貧しい人に目を向けず、中の上以上の人や金持ちだけを大切にしたらどうなりますか?貧しい人は教会でも恥ずかしい思いをすることになります。神の教会を軽んじていることになるのです。是非、貧しい人が大切にされる教会を目指してまいりましょう。

●結論
コリント教会は弱い貧しい人はそっちのけで、金持ち中心の愛と秩序に欠ける、主の晩餐式が行われていたのです。結果として貧しい人に恥をかかせ、キリストを悲しませていたのです。日本でも似たようなことが起こり得ます。私達も聖霊によって心を整え、神の教会の一員として、秩序をもった礼拝をささげましょう。そして礼拝を終えて帰る時には、今週もyes様と共に歩もうという思いを新たにしていけるような礼拝で有りたいと願います。