コリント人への手紙第一(31)

2021年1月24日
聖書箇所:Ⅰコリント11:1~16
説教題:被り物の習慣

おはようございます。今日も礼拝をささげる恵みにあずかり感謝します。コロナ禍の中で一緒に集まることに制限がありますが、ライブで一緒に礼拝出来る事を感謝します。ライブで共に礼拝している皆さんもお元気ですか。今日もよろしくお願いします。

先週はキリスト者の生き方について考えました。それは自分の利益を求めず、他の人の利益を求めて生きる事です。みんなでこれができれば日本は変わります。ぜひそうありたいと願っています。この続きが11章1節です。パウロは私がキリストに倣うものであるように、あなた方も私に倣うものでありなさいと勧めて締めくくります。

さて今日11章2節から新たなテーマ、礼拝の秩序について教えています。16節迄が女性の被り物(ベール)について、17節から礼拝時の主の晩餐、一般的に言うところの聖餐式の秩序についてパウロが丁寧に教え導いています。今日の箇所は信仰生活の基本を教えています。

●2:パウロはコリント教会の信徒たちをほめています。信仰的には低いところが多い教会でしたが、パウロは常に良い点を見つけてほめています。これは私達も見習う点ですね。具体的には、使徒たちの教えを忠実に守った点です。それはユダヤ教の女性たちが、かぶり物をしていましたが、当時の教会も、パウロの言葉に従い女性が礼拝の時に公の祈りや預言をするとき頭に被り物(ベール)をしていたことです。

ところが、ある女性信者達はパウロが教えたことの本当の意味が分からず従わなかったのです。当時公の礼拝時に女性が皆の前で公的な祈りや預言する時に、女性がかぶりものをするのはおかしいと考えて聞き従わなかった事です。

これに対してパウロは創造の秩序から始めて礼拝の秩序について教えたのが、今日の箇所です。因みに日本の教会でも、ここの聖書箇所を根拠に、かぶりものする教会があります。これは素晴らしいことです。しかし日本では、もともとベールをかぶる習慣がないので、これをこのまま適用するには無理があります。聖書にはすべてのキリスト者に求められる普遍的真理と原則を教えるものがありますが、この被り物については習慣から原則を学ぶというのが私の立場です。他には、聖なる口付けと言うのもあります。コリントⅠ16:20、日本ではお辞儀の文化が一般的です。

●3~10:女性信者のかぶりものについて、パウロは創造の秩序から教える
3:まずパウロは、神、キリスト、男、女の順番からその違いを示します。かしらとは、この頭ではなく、源とか源泉と言う意味です。創世記1章から2章にあるように、最初にアダムが創られ、アダムのわき腹からエバが作られた経緯、これが、存在の源、源泉と言う流れを示す、かしらです。創造の順番は神のなさった事なので私たちは変えようがありません。

4:礼拝の時に男が、公の祈りや預言をする時、頭を覆っていたら自分の頭を辱める。覆うとキリストの栄光を隠すことになるので、結果として自分の頭を辱める事になります。
5~6:でも逆に女性が公に祈りや、御言葉を解き明かす預言をする時、被り物をしていないと自分の頭を辱めることになる。なぜか?女が被り物をしないと男の栄光を現してしまいます。礼拝では神、キリストの栄光だけが現わされるものだから、女性が頭に被り物をしないと創造の秩序に反することになり、自分の頭を辱め、頭をそっているのと同じことになります。
6:髪を切る、頭をそる事は女として恥ずかしい事(不倫の女、遊女の印)なのでかぶりなさい。

7~9:ここは繰り返し創造の秩序から男について述べている。神の栄光の現れだから男は頭に被り物をつけるべきでない。被り物をするのは神の栄光を覆い隠す事になるから。一方女性は男の栄光の現れなので被り物をすることによって男の栄光を現さないようにする。何故か?礼拝で栄光が現わされるのは神、キリストだけです。9節(大切読む)創世記2:18、女が男の為に作られたのは、相応しい助け手になる為であり、共に向かい合って生きるという意味の助け手です。

10:それゆえ、今までの事をまとめる言葉。女性が礼拝の時、皆の前で公の祈りや預言をするときに、神の権威に服する印として、又、礼拝の秩序を見守り、共に主を礼拝し賛美をささげているみ使いたちの為にも女は被り物をつけ、神の栄光だけが現わされ、男の栄光が現わされないように、頭に権威の印として被り物をしなさいと結論して勧めています。

●11~16:神の御前でどうあるべきか?
11~12:今までのパウロの勧めは、礼拝の秩序が乱れない為に、創造の秩序から解き明かしたうえで、女性信者が礼拝で公の祈りや預言する時には被り物をするように勧めました。

これを聞いて男が女より上だと誤解する人もいるでしょう。しかしパウロは、これに対し男性と女性は互いに助け合う存在であり、平等であることを前提に話を勧めます。女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではない。最終的に共に神から出ている存在である。

13:今までのパウロの勧めを、よく考えて判断するよう勧めている。
14~15:当時のギリシャ社会における髪の毛の特徴を「自然そのものが」と言う言い方で引用しています。一般的に男性は短く、女性は長いのが普通だったようです。また女性にとって長い髪の毛は栄誉を表すもの。被り物として与えられているのだからこそ、尚更の事、きちんとベールをかぶりなさいと強くすすめています。※因みに15節の「髪は被り物として女に与えられている」からかぶらなくても良いという意味ではないので誤解しないでください。16:結論 かぶらないで良いとする習慣は私達にはないと断言して締めくくります。

●私達への適用
パウロは当時のユダヤ教から伝わる習慣に基づいてコリント教会における礼拝の乱れを取り戻す為に、人間創造の秩序を通して正しい在り方を示しました。但し、習慣や文化的背景が異なる、日本の教会で女性の被り物を適用には無理があります。では主は何を私達に教えているのか?それは、ここで教える本質を学ぶ事、神がアダムとエバを造られた創造の秩序から、男女の違いや神の栄光だけを現すキリスト者の生き方、礼拝に望む態度が問われているのではないでしょうか。

●結び パウロが勧める通り、礼拝の時に女性が、公の祈りや聖書の解き明かしができます。これは大切なことですね。是非、創造の秩序、男女の違いを受け止めつつ、秩序ある礼拝をささげ、神にのみ栄光をささげるキリスト者として歩ませていただきましょう。