コリント人への手紙第一(29)

2022年12月4日

2021年1月10日
聖書箇所:Ⅰコリント10:14~22(今回は18節まで)
説教題:偶像礼拝を避けよ

おはようございます。今日も共に礼拝の恵みにあずかり感謝します。
皆様ご存じのように埼玉県にも緊急事態宣言が発令されました。私達も最大限のコロナ対策を丁寧に取り組み礼拝が続けて守られよう願っています。その為にも礼拝を2回に分けて密をさけるようにし、マスク、手洗い、消毒は勿論のこと、礼拝時間の短縮、換気の徹底、離れた距離で話すようにして感染者が出ないようにしてまいりましょう。特に牧師家族が感染すると各方面への影響が大きいので、特に皆様のご協力を宜しくお願いします。
またライブ配信が安定する迄、伊勢崎の浅香兄弟が時間を裂いて協力いただき感謝です。

さて、今日の聖書箇所はコリント人への手紙第一10章14節~22節です。時間の関係で18節までになります。今までのところを振り返りながら学んで行きます。

14:「私の愛する者たちよ」とありますが、思えば、コリント教会はキリスト信仰の基本的理解が足りないことや、分裂、分派問題があり、パウロを使徒と認めず傲慢な振る舞いをし、知識を誇り、イエスの弟子としては程遠い状態でした。信仰にも、愛にも、霊的にも未熟な教会でした。
それにもかかわらず、彼はコリント教会の信者を大切に思い、神の愛をもって接していたのです。それが「私の愛する者たちよ」という呼びかけで、単なる外交辞令の言葉ではありませんでした。

次に「ですから偶像礼拝を避けなさい」とあります。10章1節~13節でイスラエル民族の歩んできた歴史を振り返り、偶像礼拝を警告しています。モーセに率いられ、エジプトを脱出した時、20歳以上全員のイスラエル人が、荒野の生活40年間の内にカレブとヨシュアを除き全員死んでしまったのです。
主な理由は、偶像礼拝と不品行の罪でした。この罪は神が非常に嫌うものです。何故なら、偶像礼拝は、単に木や石で作った像を拝むだけではなく、不品行がセットで行われるからです。また偶像礼拝とは神以外のものを愛し礼拝するすべての行為です。お金を愛し第一とする事や神の御心よりも、自分の考えや思いを最優先して生きる事も偶像礼拝になります。

それ故、今を生きる私達もこの罪をきっちり受け止める必要があります。何故なら11節にあるようにイスラエルの罪は私達への教訓でもありますから。この偶像礼拝に対し、パウロは何と教えているか。「避けなさい」逃げなさいとか離れなさいとも訳せる言葉です。不品行や偶像礼拝については避ける、離れる。逃げるのが一番の解決策ですね。創世記39章のヨセフが良い例です。ポテファルの妻に気に入られ、関係を持とうと言い寄られた時に彼はどうしたか?そこから逃げ出したのです。神に対して罪を冒すことが出来ないと言い逃げた結果、彼は罪から守られたのです。

偶像礼拝を避けなさい。この命令のもう一つの意味はコリント教会の、所謂信仰の強い人や、弱い人の行動とも関係しています。8章の偶像に捧げた肉について、彼らの行動を思い起こしてください。信仰の強い人は知識を誇り、異教の神殿で、偶像の神なんかこの世に存在しないと言って、信仰の弱い人(これは几帳面過ぎる人)を巻き込んで肉を食べました。信仰の強い人の言葉に元気づいて肉を食べた弱い人は、後で心を痛めます。10章12節「立っていると思う者」が、強い人に当てはまり、13節の言葉は、信仰の弱い人、後に心を痛めて悔やんでいる人に対して述べている言葉とも受け取れます。それを含め14節は、ユダヤ人、コリント教会の信者、そして今を生きる私達を含めての命令であり、偶像礼拝をさけることが信仰生活祝福の鍵になります。

15:パウロが語り掛ける「賢い人」は、知識を誇るコリント教会の人への皮肉が込められている感じですが、次の言葉に注目です。「私のいう事を判断してください」カルト宗教は考えて判断してくださいとは口が裂けても言いません。言うとしたら、恐怖心を植えこみ、逃げ場をなくした上で「判断してください」と言います。結果として巧妙に判断させないのです。一方的に指導者の言葉が絶対、真理だと思い込ませて支配、信じさせ、ロボット人間にする。これがカルトです。

私達の信仰はどうでしょうか。反対に良く考えて、信仰のポイントを理解した上でイエスをメシヤと信じて救いを受けるのです。牧師の言葉を一方的に鵜呑みにして、信じ込むのではありません。
これが聖書信仰の在り方であり、考えを停止してカルト的になるのではなく、神の前に静まり、考えながら、聖霊の導きを受けつつ、のびのびした生き方を通して賢い歩みをするのです。

16:パウロは礼拝式の中で大切な聖餐式、主の晩餐の意味を教えています。聖餐式でパンを食べ、賛美の杯(ぶどう酒に与る事)本庄教会では牧会的な配慮によりぶどうジュースにしていますが、キリストを信じて救われると聖霊のバプテスマを受けます。これは目に見えませんが、私達がキリストと結ばれて一つになる事です。キリストの命が私達の内に入る。これが救い、新生です。

ここから私たちの人生が変わります。そして徐々に、性格、考え、生き方がキリストに似てきます。残念ながら我儘なクリスチャンは、生き方も、性格も、考え方もキリストに似てきません。

こうならないように、私達はイエスの十字架の御業を思い浮かべ、罪を悔改め、もう一度新しくされて、パンとぶどうジュースをいただく時、イエスと一つに結ばれて命と恵みを受けていることを思い起こすのです。

17:そして私達はキリストに連なり一つキリストの体なる教会の一員とされています。
私達の教会では、主の晩餐の時、衛生的なことを考え、パンを回して食べることはしていませんが、一つのパンを食べる事には変わりありません。意味はイエスの十字架の苦しみ、死と葬り、三日目の復活を信じた時、キリストと結ばれ、一つとされます。この救いにあずかった事をパンとぶどうジュースを通して味わいます。正に聖餐式こそキリストとの交わりを覚える恵みのわざです。

18:ここでは旧約のイスラエルの民を例にしています。捧げものを食べる人は祭司のことでレビ記7章6節に書かれています。祭壇の交わりとは、偶像の祭壇ではなく創造主である神を礼拝する祭壇前の食事です。祭司は捧げられた肉を食べ、又、捧げた人の家族も共に食べることが出来ました。祭壇の前で食べることは単なる食事ではなく、神の民として契約の印であり、神によって罪の赦しと恵みを確認する信仰の現れです。これが新約時代の主の晩餐。聖餐式へと繋がります。

結び
今週も聖霊の励ましを受け、神以外のものを拝む偶像礼拝の罪をさけ、キリストの救いを受け、
キリストと結ばれ命にあずかっている事を覚えて歩んでまいりましょう。