コリント人への手紙第一(26)

2022年12月23日

2020年12月13日
聖書箇所:Ⅰコリント9:19~23
説教題:福音のために生きる

※姓名部分はプライバシー保護の為伏字にいたしました。

おはようございます。コロナ禍の中でアドベント第3週目の礼拝をささげる恵みにあずかり感謝します。先週は●●姉妹の洗礼式が無事に執り行われました。これからの歩みが主の恵みの中で歩むことができるようにお祈りいたします。

さて今日は一コリント9章19節から23節です。前回の流れを確認しますと、パウロが使徒としての権利をあえて制限して生きた姿から学ばせていただきました。今日も続けてパウロの福音に生きる姿を学んでいきます。

19:ここからパウロは、自分は自由とされている者だが、これは誰の支配下にも置かれていない、拘束されないということです。しかし、多くの人を信仰に導く為に、すべての人の奴隷になったと宣言しています。奴隷とは何でもいう事をきくというのではなく、進んで仕える事です。ここは9章1節の続きで、コリント教会の中で自由にされたのだから何をしてもかまわないというものではありません。パウロの自由は、イエスの十字架の死と復活のみわざを信じて、救いを受けた結果、罪赦され、新しい命を受けた結果であります。
皆さんはこの自由を経験していますか?いかがですか?そうです。経験しているはずです。今でも依然として罪赦された罪人にすぎませんが、罪の内を歩み続けることはありません。キリストが私たちの内に住んでくださっていますから。

しかしパウロはより多くの人を獲得する為(これはキリストの救いを受けるという意味)全て
の人の奴隷になりました。自由と奴隷は矛盾する言葉ですが、彼はキリストから受けた自由を
もって、むしろすべての人に仕えることができるというのです。その事例を3つ述べています。
まずユダヤ人、異邦人、弱い人たちに対しての3つです。

20:ユダヤ人に対して、彼はユダヤ人なのにユダヤ人のようになったという言い方は変だと思いますが、彼は昔のように律法に縛られ、その本質的な意味を忘れ、外見上の律法を形式的に守っていることが、神に喜ばれるという考えから自由にされました。パウロはイエスの十字架の御業によって成就した救いのみわざを通して、モーセ律法が教える真の意味を理解したのです。

でも彼はユダヤ人に対しては、自分は律法の下には、ないのですが律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にあるユダヤ人を獲得する、すなわちイエスの救いに導くためでした。

具体例として使徒の働き16:1~3。ここで、パウロは、この地方に住むユダヤ人に対しつまずきを与えないために、テモテに割礼を施しています。(読んで説明する)

また使徒21:26、エルサレムに戻ると、ユダヤ人の反発を和らげるために神殿に入りユダヤ教きよめの儀式をうけています。このようにして聖書からみて良い儀式律法は受け入れていたのです。この行為はユダヤ人に対して不要な誤解をさける為でした。当然、ユダヤ人の前では、レビ記の食物規定に沿って豚肉は食べなかったでしょうし、ウロコの無い魚は食べなかったと思います。彼はすべてにおいて自由でしたが、ユダヤ人に対しては、食べ物は皆清いと宣言されたイエスの宣言から来る自由を行使せず、みことばの原則に反しない限りユダヤ人のようになりました。

21:律法を持たない人には(ユダヤ人以外の異邦人と聖書では言います)特にここはギリシャ人を指していると思います。パウロはキリストの律法を守るものだが、律法を持たない者のようになりました。それは異邦人を救いに導くためです。具体的には食べ物についてもレビ記の食物規定にとらわれずにギリシャ人と同じような食生活をしていたと思います。※このように自分の信仰の立場を人に押し付けないということは大切ですね。特に異邦人との付き合いにおいては。

22:弱い人は8章に出てきた弱い人のことで、偶像に捧げた肉について、世の偶像の神は実際に居ないので、食べて良いのですが、弱い人は偶像の神は本当に要るものだという考えが残っていて食べると罪を犯すと考える人たちもいました。そのうえで食べてしまい心を痛めていた人です。

22節ではこのような人を弱い人と言っています。几帳面過ぎる人とも言います。でもパウロは弱い人たちを責めて信仰が無いといって裁くことをしませんでした。むしろ弱い人の前では偶像に捧げた市場で売っている肉を食べません。彼らを躓かせないためです。このようにパウロは自由と、権利を行使する事を制限したのです。彼は何人かでもイエスの救いにあずからせようとして、弱い人との関係を大切にしました。

23:彼は福音によって誰からも支配されず自由なものとされました。主イエスが私たちの為に奴隷となり仕え十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことにより、私達を罪から解放し自由を与えてくださいました。この恵みを受けたパウロは自分の全人生をこの福音、よき訪れを、身をもって証しする為にかけて生きた人です。この福音の中にこそ、キリストにある自由、命、喜び、平安、希望があります。これこそ主イエスによって与えられた恵みであります。
私達はその受けた恵みを自分の誇りや高ぶりに用いるのではなく弱い人への配慮をもって仕えていくべきであります。

適用
私達は日本という独特の偶像社会、異教文化の中で生きていますが、キリストに在って自由にされたものとして、如何に生きるべきでしょうか?キリストに代わる神の存在をさけつつ、神からの知恵を受け、おどおどせず堂々とキリストに在る自由と信仰を貫いていきたいと願っています。
しかし、また同時に、偶像礼拝をする人をも軽視せず、尊敬の思いをもって自分よりもすぐれた人として関わりを持ちたいと願っています。

結び
使徒パウロは常に自由な人でしたが、その自由をもって奴隷(僕)として隣人に仕え、歩むことができるのは十字架の苦しみ、死、復活を通して、救いを成し遂げて下さったイエスの福音、良い知らせを信じた故であります。
そして、いま私たちもイエスの福音の恵みに与ることができました。アドベント第3週もこの世界に人となってこられた主yesを見上げて歩んでまいりましょう。