コリント人への手紙第一(24)

2020年11月15日
聖書箇所:Ⅰコリント9:1~12
説教題:本物の使徒、パウロ 

おはようございます。先週の守りを感謝します。またイエス様の再臨が一週間近づきました。ハレルヤ。11月第3週もこうして礼拝をささげる恵みにあずかり感謝します。

さて、今日もコリント人への手紙第一から、共に学んでまいりましょう。前回はパウロが偶像に捧げた肉のことから展開し、弱い人につまずきを与えないパウロの生き方を学びました。9章に入りますと、内容ががらりと変わり、パウロが使徒であることを疑い、批判する人に対して、パウロの弁明から学びます。でもよく読んでみると、8章の続きで、9章でもパウロはコリント教会の人たちのために、使徒としての権利や自由を抑えていることが分かります。やっぱり聖書はつながっています。今日はこの辺の事を通して本物の使徒パウロの生き方から学んでまいりましょう。

●1~2:先ほど申し上げた様に、コリント教会の信者の中には、パウロが本物の使徒であることを疑っている人たちがいました。それ故、いきなり9章では、わたしには自由がないのか、私は使徒ではないのかと反論しています。パウロが食べ物や偶像に捧げた肉を食べるのは自由です。でも彼は弱い人の躓きになるなら、その自由を制限すると言いました。また使徒としての権利、資格を十分に活用できるにもかかわらず、それを抑制して、天幕造りの仕事をしながらコリントで開拓伝道をしたのです。でもパウロの考え方や生き方が伝わらず、本物の使徒ではないのではと疑う人もいたのです。その理由は何か?思い当たるのは①パウロがペテロたち12弟子の一員ではないこと②最初のイエス復活の場にいなかったこと、③彼は熱心なパリサイ派で最初の頃はキリストの弟子達を迫害していたことが考えられます。

確かに、使徒の働き8、9章にはパウロがキリストの弟子達を迫害する箇所がありますが、ダマスコに向かう途中、復活のイエスに出会い、直接声をかけられ、そして主の選びの器として立てられているのです。この事件以降パウロの人生は180度変わり、イエスが救い主キリストであることを命がけでのべ伝えるようになったのです。特に異邦人への使徒として立てられました。

因みに使徒とは、遣わされたものという意味で、イエスの代理人として特別の権威と力を受けています。この使徒職は人数が限られており、イエスの12弟子のほか、パウロやバルナバなどしかおりません。但し、使徒職は新約聖書、最後のヨハネの黙示録がAD90年代に完成すると、神の直接啓示がなくなり、聖書の権威が確立されましたので使徒職は無くなりました。それ故、現代、使徒職は存在しません。ですから、現代の使徒○○先生が講演してくださいますという宣伝があっても本気にしないでください。使徒ではありませんので。

パウロが使徒であるとする、もう一つの理由は、1節であなた方は、主に在って私の働きの実ではないかといっているところです。コリント教会は使徒パウロの働きの結果でありますから、彼の使徒性を否定すると彼らのキリスト者としての立場が危うくなります。それ故、2節でパウロは、少なくともあなた方に対しては使徒ですと述べています。100歩譲ってもということですね。
●3~6:パウロを厳しく裁く人たちに対するパウロの弁明です。
4:食べたり飲んだりする権利はないのか?食べたり飲んだりとはキリスト教会の献金で生活する権利はないのですか?と聞いている。勿論あるよということです。
5:ペテロや他の使徒たち、主の兄弟とはイエスの弟ヤコブ達の事。彼らは奥さんを連れて伝道旅行しました。私はそのような権利はないのですか?同じ使徒だから、あるよと言っているのです。
6:パウロとバルナバだけは、生計を立てる為の仕事をしないで、伝道牧会に励むことはできないのですか?そんなことはありません。使徒として立てられているのだから、生計を立てる為の、天幕造りの仕事を辞めても問題ないのだと言っているのです。

●7~11:更にパウロは使徒に立てられた者が、伝道、牧会に励む為、一般の漁師や天幕造りの
仕事をしなくても、生活が支えられることの正当性について事例を引用して述べています。
7:兵役に服する人、ブドウ園で働く人、羊飼い
8~9:モーセ律法「脱穀をしている牛に靴籠をかけてはならない」※口に籠を当てて食べられないようにすることをしてはならない。(申命記25章4節引用)
10:脱穀している牛の話(動物の例)は使徒や今でいう牧師など働き人について述べているとパウロは説明しています。
11:御霊の物をまいたら物質的なことを刈り取るのは当然のことです。

※因みにこの原則は今も変わりません。牧師が教会の献金から謝礼を頂き生活するのは聖書的です。ただ、誤解しないでほしいのは、牧師は教会から雇われて給料を貰っていません。奉仕に対する謝礼を頂いているだけです。謝礼なので少ないからと文句を言わず、ありがたくいただくだけです。仮に謝礼が少なくて生活できない時は他の仕事をして報酬を得ればよいだけのことです。

●12:使徒の権利を用いなかったパウロ
しかし、使徒パウロは福音宣教が何の妨げにもならない為に自給伝道を心がけ、天幕造りの仕事をして生計を立てていました。ところが、彼の権利を使わない生き方が思わぬ批判を招き、あなたは本当に使徒なのか?と信者が言い始めたのです。これは今も同じですね。ある人は、牧師は、牧師の働きだけで生活できるのが一人前という人がいます。でも私はそう思いません。

適用:私は栃木県益子町で20年以上開拓伝道をしてきました。18歳~50歳まで会社員として働き、50過ぎて体力の限界を感じ会社を辞め、フリーの立場で仕事をしながら牧師として歩んできました。今も教会の謝礼だけでは生活できないので、厚生年金や「ライフネットいかっこ」の報酬で生活しています。世の中と関わり地域貢献をして報酬を得ながら生活するのが私の基本スタイルです。他の仕事を持ち、世の中の仕組みや経済を知り、一般常識を学び、牧師として働いてきた事は、本当に良かったと思っています。この良さは何といっても、経済の心配が無い事、キリストの福音に対して妨げが無い事に尽きると思います。ですから私は皆さんに自給伝道を勧めます。
●結び
本物の使徒パウロと同じように、私達もキリストの十字架の死と復活を信じることによって救いを受け、罪から解放されて自由にされました。但し、その自由は何でも好き勝手しても許されるという自由ではありません。キリストの心を自分の心として生きる自由です。パウロのように常に弱い人に配慮し、自分自身も弱さを持つ者として生きる自由です。失敗だらけで、完全には程遠いですが、キリストの福音に対し妨げにならないような生き方、そしてどんな苦労をも苦労と思わない聖霊の力による生き方を模範として生きようではありませんか。