コリント人への手紙第一(23)

2020年11月8日
聖書箇所:Ⅰコリント8:7~13
説教題:権利や自由を制限せよ 

おはようございます。11月第2週目の礼拝をささげる恵みにあずかり感謝します。
今日も続けてコリント人への手紙第一8章から、信徒が偶像に捧げた肉について質問質問していることに対する答えの箇所からその続きです。

まず、1節の偶像に捧げた肉について復習します。肉とは当然、人間が食べる肉のことです。古代ギリシャで一般市民が食べる肉の流通の仕組みは面白いですね。まず偶像の神を祭る神殿に捧げられ、祭司が儀式を行い、その後、動物を解体し、肉が切り分けられる。その後、主催者が神殿の中で客人を招き、食事会をします。(これが10節の偶像の宮で食事をするということです)

更にコリントでは神々を祭る神殿が多くあり、常に宗教儀式が執り行われていたので、肉が余ります。食べきれない大量の肉が町の市場に出回り、一般市民が購入して食べる仕組みなっていました。ですから市場で売っている肉は、ほとんどが一旦、神々に捧げられ、祈祷した後のものを食べることになります。当時、人々は偶像の神々が本当に生きているものと考えて、肉を食べていたのです。これが偶像に捧げた肉という意味です。それでは今日は7節~13節までになります。

7:しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。この知識とはどんな知識か?
4節:世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しないという事。
6節:本当の神は、父なる唯一の神と、唯一の主なるイエス・キリストだけで、このお方によって私たちは存在していることです。この知識を全てのキリスト者が持っている訳ではないとパウロは言います。ある人はええ?何それと思うかもしれません。クリスチャンなのに、そんなこともわからないのと思う人もいるでしょう。

でも偶像社会の中にどっぷり生きてきた人は、救いを受け、キリスト者になっても、偶像が本当に今も生きていると考える事に慣れてしまい、捧げものは本当に存在する神々に捧げた肉だと、今も考え、その肉を食べて、弱い良心が傷つき汚れてしまうのです。
そして、自分は神に罪を犯したと思いこみ、心が沈んでしまう人です。ある人とは、9節の弱い人のことで、意味は几帳面過ぎる、敏感すぎる、無力なということです。

8:しかし、食べ物が、我々を神に近づけるわけではないので、食べなければ損するとか、食べると得するということはありません。パウロは言います。

9:知識のある人への警告:ただ、知識のあるあなた方の権利や自由を弱い人の躓きにならないように制限しなさいと警告します。

10:ここも知識のある人に対する勧め、配慮。宗教行事を終えた後、神殿の中で食事会をし、偶像に捧げた肉を食べています。ここに、その人とは弱い人(自分の考えが定まっていない、几帳面過ぎる人、敏感すぎる人)のことです。その人は大胆になり、勢いづいて肉を食べ、後になって、後悔し、信仰上の苦しみを増すことになるではないか。

11:つまりとあるので、パウロは知識ある人に警告しているところです。知識のある人よ、弱い人は、あなたの権利や自由な発言、行動を通して、信仰が滅びる(別の言い方をすると失われる、駄目になってしま)のだ。その弱い兄弟のためにもキリストは十字架に掛かって死んでくださったのに。

12:あなた方は自分で、知識があると思い込み、弱い人の前で、無神経な行動をとり、弱い良心を傷つけることは、キリストに対して罪を犯しているのだとパウロは指摘しています。

13:ですから、パウロがとるべき態度の表明。結びの部分です。偶像に捧げた肉のことで兄弟を躓かせるなら、今後私は決して肉を食べないと宣言しています。以上偶像に捧げた肉のことを通してパウロは、知識ある人はそれを誇らず、相手を理解し、権利や自由を用いる際には、弱い人に対する十分な配慮をもって関わることを教えています。

適用 3つ
●伝統を重んじる日本的な家庭、家柄では、今でも、お土産や良い物を、まず仏壇にいるご先祖様に、一旦ささげて後、食べる習慣があります。例えば、私達がお客として人の家に招かれた時に、手土産を仏壇に備えた後、どうぞといって差し出されることがあるかもしれません?そのような時、あなたはどうしますか?私の場合は、ありがたくいただきます。そこに、ご先祖様の霊は存在しないので、しかし、その席に、キリスト者で、明らかに弱い人が一緒にいた場合、それを食べると汚れると考え、神に罪を犯すと考えると分かっていれば、その人の手前食べません。(たとえおいしい物でも)
ローマ14:1~6、ここは信仰の弱い人を受け入れる事への勧めです。1:信仰の弱い人(几帳面で、敏感すぎる人)を受け入れる訓練が必要です。裁いてはならない。 ここは本質的でないことに対する態度が書かれています。
●食物 
2:信仰上の理由で野菜しか食べない人もいます。3:双方が見下す行為や、裁いてはいけない。4:他人を裁くあなたは何者か?(自分が上にいると隣人を裁いてしまいやすいものです)

●特定の日を重んじることに対して
5:土曜日が大切だ、いや日曜日だ、いや金曜日だ、いや、どの日も恵みの日で大切だと考える。これは自分で確信を持てばいいだけのこと、6:まとめ、それぞれが、主のために特定の日を選んでいるのだから、他人の確信に、いちいち、脇から入りこんで邪魔をしないことが大切です。本質的なことは譲れないが、枝葉のことはそれぞれの考え方に任せることが大切です。そうすればお互い喧嘩しません。

結び
私達が、様々な知識を身につけることが必要です。しかし権利や自由を誇ることなく、人を馬鹿にすることなく、主イエス・キリストを見上げ、キリストが生きたように生き、弱い人に対して十分な配慮をし、実行するキリストの僕でありたいと願います。