コリント人への手紙第一(17)

2020年9月20日
聖書箇所:Ⅰコリント6:12~20
説教題:代価を払って買い取られた者 

おはようございます。9月第3週を迎え共に礼拝を捧げる恵みにあずかり感謝します。
報告ですが、先週の火曜日、川島兄弟とさやか姉の結婚式が滞りなく執り行われました。是非二人の歩みの為にお祈りください。また今後とも主にある良き交わりを宜しくお願いします。
さて、前回は教会内における信徒同士の争いについて学びましたが、今日は6章12節~20節から「代価を払って買い取られた者」という題になります。12節から、教会内争いと違い5章の続きで不品行の問題に戻ります。

12:この話に入る前に一つお聞きします。皆さんはキリストを信じると自由がなくなると考えた事は有りませんか?私は信仰を持つと不自由になるのではないかと考えていました。でも、クリスチャンになると解放されて自由にされました。そしてその自由の中で、これはしていい。これはしない方がよいと考える様に変えられました。これがキリストの救いを受けた者の真の自由です。

ところが、コリントの信者たちは自由を放縦(勝手気ままにふるまう事)と、はき違え、全ての事が私には許されている(許可されている。合法的であると受け止めて)何をしても構わないと考え、実行したのです。この辺の感覚は私たちとは少し違いますね。
特にここで彼らが自由にふるまったことは性的不品行(夫婦以外の性関係)です。何故この様な罪を平気で犯すことが出来るのか?その背景はギリシャ哲学の霊肉二元論があると思われます。霊を重要視し、肉体や物質を軽視する考え方が特徴です。それ故、彼らは、肉体上の事は何をしても許されていると正当化したのです。※具体的行為は、コリント神殿にいる女性、神殿娼婦と性的関係を持ったことです。
これに対してパウロはすべてが益になることではない。あなた方は全て許されていると言いながら、それは放縦であり不品行の罪に支配されているのだと言います。

13:もう一つ、「食物は腹の為にあり、腹は食物の為にある」という言葉は、食物と腹の関係ではあれば、普通の事ですが、彼らはこれを夫婦以外の性的関係にも適用して「自然で自由な事だ」と考え不品行を繰り返していたのです。これに対しても使徒パウロはNOと言います。
食物も腹もやがて滅んで(無くなる)と教えています。そして体は不品行の為にあるのではなく、主にあって生きるためにあり、主はからだをよみがえらせるためにおられると断言します。

14:神はキリストをよみがえらせたが、それは共に私たちも甦えらされるのだと言います。

そして15節から結論へと繋がります。
15:知らないのか?あなた方は見えないけれども、キリストの体の一員としてキリストに緊密な繋がりを持つ存在とされているのだから、キリストに代わって遊女と一つ体になることは決してあってはならないと、コリント信徒たちを非難しています。16節迄繰り返し述べています。

16~17:しかし、キリストに結び合わされた者はキリストと一つにされているのだ。

18:この罪の解決法がかかれています。それは避ける事、近づかない、逃げる、逃げ続けるようパウロは命令しています。一般の罪は体の外でなされるが、不品行はキリストの体なる教会の一員とされた体に対して罪を犯すのでキリストの体なる教会を汚す罪になります。
※現代日本でも、様々な性的罪の誘惑がある時代です。解決策は避けるしかありません。アブラハムの甥、ロトはこの点で失敗してしまいました。目の欲に目がくらみ、だんだんとソドムに近づき、最後にはソドムの有力者になってしまったのです。

19:キリスト者の立場を教えています。
①コリントのキリスト者の内には聖霊が住んで下さっている。聖霊の宮とされた。きよい立場にされている。キリストをメシヤと信じた時に聖霊なる神が私たちの内に住むようになった。
②あなた方はもはや自分のものではない。代価を払って買い取られた。キリストの尊い血潮によって罪赦され、贖いだされた存在です。これが代価を払ったということです。買い取られたお方は誰ですか、キリストのです。私やあなたはキリストの者とされた。これがキリスト者の姿です。

適用 コリント教会に起こった事は私たちにも起こり得るのです。
①夫婦以外の性的関係はキリストを悲しませる事。キリストの体なる教会を汚す行為である。
②性的罪に対して避け続ける。逃げ続ける。遠ざかり続ける。これがパウロの命令です。
③私たちもキリストの尊い十字架の血潮によって、買い取られたものです。私たちの所有者、主人はキリストです。キリストの心は何かを考えて、キリストの御心に従う事が僕の生き方です。
※言っておきますが自分のお心に従うと失敗の連続です。

結び 結論 自分の体を通して神の栄光を現わしなさい。ここが結論の部分です。
20:常にキリストの体なる教会の一部であることを自覚し、性的罪から逃げ続け、キリストと緊密な関係を保ちつつ、生きる。
具体的には祈りや聖書の学びを通してキリストの心を知り、従うこと。そうすると結果はどうなるか、自分の体を通して神の栄光、素晴らしさが現わされるのです。

キリスト者及びキリスト教会は具体的にどう生きるか?2つです。
①キリストに在る自分の生き方を通して主を証しする。
②自分が置かれた埼玉北部の本庄児玉郡市で社会的責任、使命は何かを考えつつ行動する。
もう一度言います。生き方を通してキリストを証しする事とキリスト者の社会的責任、使命を実践する。この2つをバランスよく、しっかり持ちながら歩んでいければ幸いです。