コリント人への手紙第一(16)

2020年9月13日
聖書箇所:Ⅰコリント6:1~11
説教題:互いに訴え合うな 

おはようございます。9月第2週を迎え礼拝を捧げる恵みにあずかり感謝します。
今日は6章1節~11節を通して「互いに訴え合うな」という題でメッセージします。
皆様ご存知の様に、当時コリント教会は様々な問題、課題があり、それに対して使徒パウロが勧め、叱責、指導をしています。今日の箇所は教会内における信徒同士の争いについてです。

○話を進めるにあたって、当時の裁判について理解する必要があります。ユダヤ人指導者たちは、使徒パウロを快く思わず、殺害するために、罪をでっちあげローマに訴えました。しかしローマ市民であった使徒パウロは、彼らの陰謀を知っていましたので、このまま終わらすわけにはいきません。ローマ皇帝に上訴する対抗手段を取りました。使徒の働き25章、26章に詳しく出ています。このように正当な手続きを経た裁判をしないと個人の権利や財産、命を守れない時があります。これは当然必要な事です。

○でもコリント6章に出てくる、話は全く違います。彼らは教会内で己の知識を誇り、常に人より自分が上という考えがありましたので、日常の些細なことで争いが絶えませんでした。これは私の独断と偏見による想像ですが、トラブルの原因は、悪意の噂話をして人を陥れる、自分の考え方が正しい、愛餐会の時、食べ物を分けてくれなかった、こちらが挨拶しても無視された、自分の座る場所に別の人が座ったので気に入らない、御金の貸し借りによるトラブル、自分の奥さんより隣人の奥さんの方が綺麗なので嫉妬した、そのような事があったのかもしれません。

些細な事から口論が始まり、感情的になり、訴えてやる、訴えて見ろとか始まっていく。こういうことが教会の中で常に起こっていたら、既にキリスト教会の体をなしていないですね。

○でも当時の裁判は不公平で、お金持ちに有利に働くシステムです。勿論賄賂も額の大きい方が有利になったかもしれません。4節:これは教会の立場から見て最も価値のない、あるいは資格のない人を、そのような問題を持っていく裁判官として定めるのですかと、パウロは指摘しています。このように当時の裁判官が社会的に尊敬される立場ではないにもかかわらず、どうして裁判に持ち込もうとするのかと注意しているのです。そんなことを前提にして学んでまいりましょう。

○1:仲間と争いを起こす。これが繰り返されていたのです。
争いが起きた時に、裁判好きなコリント教会の人達は、自分たちで解決出来なくて直ぐ裁判に訴えていたのです。しかもパウロは、神のみ前に正しくない者たち(裁判官)にどうして訴えるのかと問うているのです。
※日本にもこういうクリスチャンはいました。自分で争いの原因を作って何かあると裁判だ、警察だ、救急車呼べとか、訴えてやると、はじまるのです。老人ホームに入居してもトラブルが絶えず、妻で度々警察に行き後始末をしました。今、既に主の元に召されて平安の内にありますが、争い好きな人で当時は常に警察、救急車を呼んではトラブルを起こしていました。

コリントの信者たちも自己中心なので権利を主張して争いを大きくし、収拾がつかなくなり自分達の中で円満解決できず、信用のおけない裁判官にゆだねたのです。
その中でパウロの勧めは、彼等の立場、救いを受けた者として神から受けた立場を思い起こさせるようにして語り掛けます。(次の節)
○1:聖徒たちに、聖徒とはイエス・キリストの十字架のみわざを信じて救いを受けた者は、神に清め分けられた者とされたのだと書いています。神の目から見ると尊い存在とされたのです。

○2:聖徒たちが世界を裁く。終末の再臨の時に、キリスト者はキリストと共に世界を裁き、千年王国の時にはキリストと共に、世界を治める立場に立つのだと教えています。そこまでの立場にされているのだから教会内の争いごとは自分達で解決できるということです。
※ここを見るとパウロはコリント教会に終末論、千年王国をしっかり教えていた事が分かります。

○3:み使いをも裁く。これも終末キリストの再臨後に起こる事を2節と共に教えています。

○11:神の御霊によって洗われた。イエスを救い主と信じた時にキリストと結ばれ、新しく、キリストの命を受けたことです。

○11:聖なるものとされ、神の前にキリストの十字架のみわざを信じた故に、神のみ前に義と認められた。キリストの新しい命を受け、キリストに在って神の前に正しいとされた。
以上の様にあなた方は、幸いな立場にされたのだからそれに見合うような、考え方、生活をしなさいと言う勧めです。でも彼らは残念ながら権利や利益を主張し、知識を誇っていたのです。

具体的な勧め、対応の仕方は
コリント教会内で争いごとを処理できない彼らに対して、
7:互いに、訴え合うのはやめよ。どちらが勝っても負けても、敗北だから。
泣き寝入りしなさいと言う意味ではありませんが、パウロは不正を甘んじて受ければよいではないか、当然の権利を奪われるままにしておきなさい。だまされていないのですかというのです。
常に何が、キリストの栄光につながるかどうかが判断基準にあります。ここがポイントです。

私たちへの適用と結び
コリント教会で起こった争いごとは、現代の教会でも起こり得ます。本庄教会でも起こりえます。その時にどうすればよいか?争いが起こった時に一歩下がって、一呼吸おいて、キリストの栄光に繋がることは何かを考え、祈り、聖霊によって円満解決を出していけば解決します。

またパウロがいう様に、キリスト者はキリストの十字架の血潮によって、聖徒、即ち神によって、聖なるものとして取っておかれた聖なる存在として、キリストの命が与えられている事を忘れてはなりません。
やがて千年王国でキリストと共に世界を治める立場にされ、希望がある事を忘れてはなりません、訴え合っても何の益にはなりません。これは今を生きる私たちにも語られているメッセージです。