コリント人への手紙第一(12)

2019年11月24日
聖書箇所:Ⅰコリント3:5~9
説教題:成長させて下さる神 

今日はコリント人への手紙第一3章5節~9節になります。来週からはアドベントに入りクリスマス関連のメッセージになります。そして最後の29日は一年を振り返って考える事を話したいと思います。今年も1年の速さを感じます。年齢を重ねると共に年々1年が早くなる感じがしています。皆さんは如何でしょうか。

5:それでは聖書を読みます。前回の前の箇所です。今迄の所を振り返ってみますと、コリント教会には様々な信仰上の問題、課題がある事学んできました。特に今まで学んできたところでは分派問題ですね。これをやると教会は非常に残す大きな傷を残すことになりますね。このような分派問題はどうして起こるのか。他人ごとではないのでよく考えてみると、一つ目は信仰の在り方を正しく理解していないことがあります。
彼らはギリシャ的文化を背景に生きています。そこでは自分を向上させ、より高めて、より優れた知恵ある者になる事が何よりも大切であり、価値があり神に喜ばれる生き方であると考えていたのです。そのような文化の中でイエスをメシヤと信じる信仰によって、自分を知恵や知識ある者として向上する事こそがより立派なすぐれた信仰者になる事だと思うようになり、それこそ神に喜ばれる信仰者だと考え、自分たちの主張を強めていきました。
そのような信仰の姿勢は聖書信仰をねじ曲げて歪めるものなので、パウロが教えた信仰が変質してしまったのです。パウロの伝えた福音の中身がいつの間にか変わってしまったということです。そして結果的にコリント教会の分裂、分派問題につながっていくのです。

コリント教会にはこの福音理解が不足していたために信仰の在り方が間違うようになっていきました。結果的に高い知識や知恵が最優先になり、より魅力ある指導者を求めて、ある人はパウロにつく、ある人はアポロにつくという分派争いが激しくなっていったのです。彼らは真面目に信仰の歩みをしようとしたのですが、聖書理解の根本が間違っていたために聖書と違った方向に行ってしまったのです。何とも哀れですが、私達は笑うことは出来ません。日本のキリスト教会も同じことをしています。真面目なので、より相手を責めるという方向になりやすいです。互いに自分の立場の正当性を競って爭って、分派問題を繰り広げている所もあります。

この様にイエス・キリストの福音に生きるのは私達がより知識や知恵を深め、立派に自分を向上させて生きるよりも、あるいはそのような事こそ最も神に喜ばれる価値ある生き方だと考えるのでなく、神の前に罪深い者が、ただ神の憐れみと恵みにより、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる事によって、罪赦され神の祝福にあずかり、100%という人は誰もいませんが神の御計画全体の理解を深め、主のみこころ第一と願いつつ歩むことです。そして結果として主にあって知識や知恵を深め、物事の本質、人間理解や世の中理解、世界の理解を深めるのは素晴らしい事です。

分派問題の2つ目の理由は5節。指導者に対する理解の不足したまま指導者についていたのです。日本でいうと○○牧師は立派な人だから、私はその教会で牧会されたいとか、○○牧師がいなかったら今の自分はなかったとか言って、ことさら牧師を崇め、依存するのです。出会いを感謝し、良い交流をすることは素晴らしいことです。でも殊更、特定の牧師を崇め、依存する事は神に喜ばれることではありません。コリント教会が分派して力を失っていくのはそこに原因がありました。パウロはズバリ言います。アポロとは何か、パウロとは何か。何かとは指導者の本質を述べています。パウロやアポロは主が各々に授けられた賜物に従って、信仰に入る為の僕だというのです。僕とは大先生ではなく、仕えるもの、奉仕者という意味です。にもかかわらず、コリント教会の人たちはパウロやアポロにつながることによって安心感や信仰の成長を得られるものと思い込んでいたのです。今の日本でいうと、○○牧師は立派な人だから教会員が過度にその牧師に依存して、安心感を得ようとする事ですね。牧師もまた頼られる事により自分の存在感を得ようとする人もいます。これではキリスト教会は健全に成長しません。教会員にとって牧師の存在は大きいものです。でも大きすぎてはならないのです。ここがコリント教会の分派問題の2つ目の理由です。

では分裂を防ぐポイントは何か。牧師は信徒と共に生きる信徒の一人である奉仕者、僕であるのだという事を理解する必要があります。ただ賜物によって教会を牧会する為に指導者に立てられている奉仕者なのです。アポロもパウロも自分に与えられた使命に従って奉仕していたに過ぎないのです。その尊い働き故に尊敬は必要ですが過度に依存してはならないのです。

6:パウロが植えてとは開拓伝道の事です。彼の使命でした。アポロが水を注ぐ、これは救いを受けた人と共に歩むという事。今でいうと牧会的な事が得意分野という事になります。けれどもこの働きは限られたある一定の期間に過ぎないのです。だからいつまでもパウロにとか、アポロにとか言っているのは、全く愚かであると言わざるを得ません。彼らはそれぞれ賜物に忠実に従っていただけでした。
それは成長させて下さるのは神だという確信が重要です。こここの文脈は、いつも神がキリスト者を成長に導く働きをしているという意味なので私たちは常に主に信頼して信仰の成長をさせていただこう。
7:ここでもパウロは、植える者でも、水を注ぐものでもなく大切なのは成長させて下さる神だと述べているのです。継続した神の働きを述べている。
8:アポロやパウロは神の教会の中で自分に与えられた賜物に沿って働きをしていたのです。結果としてやがて主にある報酬、報いを受けるのです。

9:パウロとアポロは神の協力者。コリント教会の人たちは神の畑、神の建物。私たちも同じように神の畑であり、神の建物です。神の所有物。私たちの中で神のみことばが芽を出し、育ち、豊かな実りの実を生んで下さるのです。成長させ実りを与えて下さるのは神です。神が御業を成してくださる。これが神の畑、神の建物の姿であります。信仰者の群れである教会の姿なのです。

以上キリスト教会は、すぐれた指導者の下でグループを作り、私達が向上し、立派なすぐれたものに成ることが神に喜ばれる事ではなく、神がみことばの種を蒔き、養い育て、豊かな実りを生み出してくださる神の畑、キリストの体である神の建物なのです。つまり神の畑や神の建物である、私たちの人生は神が働かれる場所なのです。
適用
教会はコリント人達が考えていたように自分を磨き、向上させ、より優れた知識や知恵を第一にして神に喜ばれようとするのでなく、神の所有であり、いかに神が中心にいて働きが広がっていくかであります。牧師は信徒の一人として信徒と共に神に仕える奉仕者であることを確認しましょう。
結び
現代に通じるコリント教会から学んでどんな感想を持たれましたか。私たちを絶え間なく成長に導いて下さる神に望みを置いて今週も共に歩んでいこうではありませんか。